再び理科室の歴史について(1)2006年10月01日 21時34分01秒


その後も理科室の歴史にこだわって、ちょっとずつ調べています。
その中で分かってきたことを、この場で書き継いでいこうと思います。

写真は京都の室町尋常小学校の理科室(昭和11年の絵葉書)。
昭和9年に上陸した室戸台風による被害の後、鉄筋コンクリートで建て替えられた新校舎の一角。昔の理科室をリアルタイムで捉えた貴重な画像です。

当時最先端の施設ですが、今見ると懐かしさが先に立ちます。

前にも書いたと思いますが、私自身、戦前のコンクリート校舎で学んだせいで、こうした風情に敏感に反応してしまいます。しかし、木造校舎ほどには世間の関心を惹かないのか、資料がごく乏しいのは残念(木造校舎の写真集が、一時期ブームといえるほど出たのとは対照的です)。

大正年間、神戸で始まった校舎鉄筋化の流れは、その後震災で大きな被害の出た東京を中心に大々的に進んだので、そうした校舎にノスタルジーを感じる人はきっと多いはずなんですが…。

再び理科室の歴史について(2)2006年10月02日 23時31分16秒


(明治33年発行 『小学理科教科書 巻二』 挿絵)

理科室の歴史を調べようと思って、理科教育史の文献に当ったのですが、なかなかこれというものが見つからず途方に暮れていました。その後、資料は学校建築史の分野からひょっこり出てきました。

参照したのは『建築計画学8 学校Ⅰ』(青木正夫著、丸善、昭和51)という本です。第2章にある「理科教室」の項は、戦前の理科室の通史として、私が目にした唯一の文献です。以下これに依拠(というか受け売り)して、その歴史を概観してみます。

■明治前期■

他の分野と同じく、明治の教育制度もまず「形」から入りました。理科教育も例外ではありません。

「早いところでは、明治12、13年より、理化学器械を購入し始め、また各県とも新築祝いに理化学器械や庶物標本などを記念品として贈り、明治16年には文部省も学事奨励品として、これらの品を付与」しましたが、絶対量としては微々たるものでした。

学校現場にもそれを使いこなせる教員がおらず、そうした品々は単なる記念品としてキャビネットに恭しく飾られるのが常でした。理科の授業はまったくの読本中心で、不ぞろいながらも博物掛図があれば「先ず中等の部」という状態がしばらく続いたのです(文部省第12年報告/学事巡視功程/福岡県)。

その後、読本中心から、徐々に実物教育や実験授業が取り入れられるようになりましたが、購入された器具は少なく、実験ももっぱら教卓実験であったため、独立した理科室へのニーズはありませんでした。

「ただその器械や標本を格納する場所が必要となり、しかも貴重品であることから『大なる小学校は図書標本等を置くべき特別の場所を要す』と、また『図書標本器械の置場等は教員室に設くるを要す』と規定され」ました(明治24年小学校設備準則、同28年学校建築図説明及設計大要)。この「特別の場所」こそ、理科室のいわばルーツに当たるものでしょう。

日清戦争に勝利し、日本の新体制が強固なものとなったこの時期が、理科室の胎動期といえます。(一方には、神戸小学校のように、明治17年という早い時期に化学教室を備えた学校もありましたが、それはあくまでも例外的な存在です。)

(この記事続く)

再び理科室の歴史について(3)2006年10月03日 22時55分15秒


(明治33年発行 『小学理科教科書 巻二』 挿絵)

引き続き、青木正夫著『建築計画学8 学校Ⅰ』からの摘録です。
(以下は、上の著書の不完全な引用と、私のコメントの入り交じったものです。)

■明治後期■

本格的な理科室が設置されるようになるのは、国内の産業資本が急激な成長を示し、重工業へと移行した日露戦争後のことです。(この点からも、近代の理科教育と軍事、産業とが密接に結びついていたことが垣間見えます。)

この頃、理科の教育法にも変化があり、児童中心の教授法が一般的となりました。その流れを受けて普及したのが「学校園」で、児童自ら植物を栽培してその成長を観察することが始まりました。また、物理化学でも生徒実験が行なわれるようになり、中には学芸会の演目として、児童による理化学の実験が演じられる場合もありました。

このように実験・観察が盛んになり、児童による実験の機会が増えたことから、いくつかの学校で、理科教室が設けられるに至りました。この時期が、理科室の揺籃期といえるでしょう。

しかし全体的に見れば、この時期に理科室を設置した学校は、まだまだ少数派でした。

「明治42年文部省において、各県から1校ずつ優良小学枝として表彰した学校を見ても、平面図の明らかな17校中、理科教室を設置している学校は2校にしかすぎない。教室内に観察棚を設けた例が多く報告されていることから、依然として〔授業は〕教室内で行なっていたと考えられる。明浩42年、文部省普通学務局編纂の「小学校建築図案」中の7校いずれにも理科室はない」…という状況でした。

明治末年になって、官製教科書が作られたことは(明治41年=教師用、43年=児童用を発行)、理科教育の普及徹底に功を上げましたが、一方では教材の画一化を招き、再度教科書の機械的暗唱を強いる結果となりました。そのため、理科室の普及もペースダウンせざるを得なかったのです。

この頃(明治41年8月)、文部省図書課から「尋常小学校理科書内容ニ基キ民間ニ於テ製作ノ掛図使用並ニ実物標本器械類購入ニ関スル注意」という通知が出されています。文中、「掛図は実物・事物の取扱いがおろそかになる」点が強調されていますが、一般教室で教科書を使って授業をする分には、確かに掛図の方が便利であり、重宝がられた様子がうかがえます。

なお、この時期の特徴として、理科をはじめ、実習を必要とする他教科と共同使用するための、折衷的な作業室を設けた学校もありました。床を漆喰土間とし、壁面に理科実験器具の格納棚を作り、家事科のためにかまどを設け、流しの下に調理器具や洗濯器具を格納する…などが、その例です。

(この記事続く)

再び理科室の歴史について(4)2006年10月04日 21時07分17秒


(小野田伊久馬著 『六箇年小学校理科教材解説』 明治40年より。愛らしい鯨の挿絵。ステッキをついたおじさんも可愛い。)

さて、さらに続きです(出典は昨日に同じ)。

■大 正■

「理科教室の設置が飛躍的に増加したのは第1次世界大戦後である。政府は敗れたとはいえ、ドイツの科学力に驚嘆し、近代兵器の出現に目をみはり、理科教育の重要性をあらためて認識して、大正7年には中学校、師範学校に生徒実験設備補助費として20万円を出し、大正8年には理科を小学校4年から課して時間数を増やした。」

第1次世界大戦(1914~1918;大正3~7年)後の、大正デモクラシー華やかなりし時代が、理科室の「発展充実期」にあたります。日清、日露の両戦役につづき、ここでも理科教育充実の背後に不気味な戦争の影を見ることができます。

「各府県でも理科教授の振興と設備の充実を促して訓令を発している。熊本県の訓令(大正10年4月)によると『理科教育ノ振興ハ我国戦後教育ノ一大要目…』であり、したがって『特別理科教室ノ設置ハ教育上最モ大切ナレハ町村経済ノ許ス限リ成ルヘク急二設置ノ方針ヲトルコト』と督励をしている。この結果、発明発見の思想は一般に流布し、理科教育熱は非常なもので、理科講習会はしばしば開かれ、簡易理科器械が先生の手によって盛んに作られている。」

一般的な理科重視の風潮と、こうした官による督励とがあいまって、大正時代には理科室の設置が急激に増加しました。


 【前掲書・表3.2】 山口県小学校理科設備普及の状況
           (学校総数397校に対する比)(大正11年4月末)
 ******************************************************
 実験用具4人1組宛以上備え付けたる学校数   111   28.0%

 教授上大体不都合なき程度に器械標本等を    202   50.9%
 備付せりと認むる学校
 ******************************************************


上の表は、大正11年における山口県下の調査結果です。授業をするのに、ほとんど不都合のない程度に備品を備えた学校が半数に上る一方、児童実験用具を4人1組以上備え付けている学校は28%にとどまり、その差が目立ちます。

ここで後者(28%)は、理科室設置校と重なるように読めるのですが、青木氏の原著はこの前後の文意が曖昧です(一応、ブログ主は左のように解釈しました)。ともあれ、このデータから青木氏は、

「これは教室を設置するには水・電気などの設備が必要で単なる普通教室の転用では機能を果さず、これを設備するとすれば多額の出費を要することから、経済的余力がなかったと解され、市町村財政の貧富がそのまま教育の格差として現われている。したがって理科教室を設置した学校では、多額の出費をあえてした学校であり、またその設置目的が児童の実験・観察を行なうことにあったから、その建築的設備は現在の理科室と大差ないほどの充実したものであった。」

…と結論付けています。理科室の普及過程は一様に進んだわけではなく、学校間格差が大きかったことが分かります。一口に「大正時代の小学校」と言っても、実態は千差万別だったのです。

(この記事続く)

再び理科室の歴史について(5)2006年10月05日 00時14分27秒


(京都市淳風尋常高等小学校の理科教室。昭和6年頃の絵葉書)

今日も青木正夫著 『建築計画学8(学校Ⅰ)』 の続きです。今日は短いので全文引用です。

■大正末年~昭和戦前■

「その後、理科教育は自然科学の精密な究明へと向かっていく傾向をもち、生活経験をはなれた科学の体系に沈むようになったため、もっぱら分科化の方向をたどっていった。

これが小学校の理科教室のとられ方にも影響し、経済的に余力のある学校では、理化室と博物室あるいは物理室と化学室とを分けてとるようになった。

大正14年に発表された東京市訓導協議会の手になる特別教室の仮想設計にも、この傾向がうかがわれ、また当時建った東京市のいくつかの小学校にも分化してとっている。

昭和期に入ると、理科教育を生活化しようとする General Science の思想が起こったが、満洲事変を経るとともに日本精神運動が隆盛に向かい、自然科学軽視の風潮となって理科教育は沈滞していった。

この傾向の反省が戦局が進むとともに起こり、昭和16年国定理科書の全面的改訂を行ない、模倣を排し創意を重んじ、実験と観察を強調し、理科教育の進歩においてかなり本質的なものを合んでいたが、一面では、西欧文明に対する極端な排他主義で神がかり的な日本理科が提唱された。しかも物資不足に悩まされていた時期ゆえ、理科教室はむしろ滅少の方向をたどり終戦へと至った。」

大正末年から昭和にかけては、理科室の「爛熟と衰退の時代」だったと言えるでしょう。

■ □ ■ □ ■

以上、青木氏の文章に拠って、終戦までの理科室の歴史をたどりました。理科室は戦後も、理科教育振興法の制定や、学習指導要領の改正などを受けて、独自の展開を遂げたはずですが、その辺は今後の宿題とします。(先回りして名づければ、戦後は「復興と画一化の時代」と呼べるような気がします。)

とりあえず、モヤモヤしていた霧が晴れて、胸がスッとしました。
理科室の「見巧者」にまた一歩近づけたような気分です…

ウィーン大学天文台2006年10月07日 08時50分32秒


1898年の消印のある古絵葉書。

現在も使われている、この堂々たる建築は、1874年に建てられました。
絵葉書では分かりにくいのですが、公式サイト(http://www.astro.univie.ac.at/)の表紙を見れば分かるとおり、ラテン十字型の平面プランで建てられています。明らかに教会建築の意匠を取り入れた作品。「天上の神を拝する聖なる場所」、というわけでしょうか。

絵葉書は西北方向から撮った写真で、左から北ドーム、東ドーム、中央大ドーム、西ドームが写っています(正面玄関は南側なので、ここには写っていません)。

設計者はフェルディナンド・フェルナーとヘルマン・ヘルマーで、当時はむしろ劇場建築家として有名な人物だったそうです。

19世紀のオリジナルの状態では、中央の大ドームには、当時世界最大を誇ったグラブ製27インチ屈折が、東ドームにはクラーク製12インチが、西ドームにはフラウンホーファー製6インチが、北ドームには彗星探索用望遠鏡が設置され、さらに中央ドームと他のドームを結ぶ回廊部には、各種の子午線観測機材が置かれていました。非常にぜいたくな構成です。

デザインといい、機材といい、フランツ・ヨーゼフ1世治下のオーストリア=ハンガリー帝国の威信を示すに足る大天文台です。

リチャード・プロクター 『星たちと過ごす半時』2006年10月08日 19時25分24秒

今日はすばらしく澄んだ秋空でした。
ブログの方も爽やかなイメージで記事を書いてみます。

■Proctor, Richard
  HALF HOURS WITH THE STARS: A Plain and Easy Guide
  to the Knowledge of the Constellations.
  W.H.Allen & Co., London, 1884.
  p.22 + 12 maps (28 x 21 cm)

* * *

古星図というと、真っ先に美しい星座絵をイメージします。

しかし19世紀も半ばを過ぎると、学者はもちろん、一般の天文ファン層の内にも新しい図像表現、新しい星空のロマンを求める心が萌してきたように思います。

そうした19世紀の新感覚に合致した、ちょっと素敵な作品として、プロクターの星図集『星たちと過ごす半時』(1884)を挙げたいと思います。

紺色の空に白く浮かびあがる星座とミルキーウェイ。
山間の一軒家、教会、小高い丘、灯台、沖合いを静かに進む蒸気船。
周囲を取り囲む地上の景色も愛らしく、ちょうどダンキンの『真夜中の空』のジュニア版といった趣です。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/01/23/223693
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/01/24/224089

プロクターは、前書きで「年若い入門者にも誤解のないよう、細心の注意を払った」と述べていますが、地平線上にこうした景物を書き入れたのも、そのための工夫の一つでした。

本書には、こうした月ごとの星図が12枚と解説が収録されています。

リチャード・プロクター『星たちと過ごす半時』(2)2006年10月09日 07時20分11秒

昨日の全体図だと細部がよく分からないので、図の一部を大きくしてみました。
1月初め、午後9時頃の空です。

左手に明滅する灯台、右手に蒸気船が見えます。
海上からは垂直に立ち上がる銀河。
中天には双子座、牡牛座、オリオン座がちょうど見ごろです。

初学者向きということで、描かれているのも3等星までというシンプルな星図。
ネイビーブルーと白の対照が目に鮮やかです。

なお、昨日この本の刊年を1884年と書きましたが、調べてみると初版は1869年、その後出版社を替えて1911年まで長く版を重ねたそうです。