棚の奥から(4)…透明標本2010年07月16日 19時56分58秒

唐突ですが、名和昆虫博物館に行って来ました。
もともと博物館とは関係なしに、今日は岐阜に行く用事があったのですが、ユカタンビワハゴロモの記事以来、同館のことが俄然気になり出し、時間の都合をつけて足を伸ばすことにしました。その様子は、写真を整理してから記事にすることにします。

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さて↑は、最近すっかりポピュラーになった透明標本。
透明化した筋肉を透かして、紫と青に染色された骨格が鮮明に観察できます。

ブームの先駆けである冨田伊織氏(http://www.shinsekai-th.com/index.html)をはじめ、最近は手がける業者も増え、ネット等で手軽に購入できるようになりました。東急ハンズの店頭でも、いろいろな人が手にとっている姿を見かけます。

しかしこの「ブーム」を前に、私の心は少々複雑です。

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昆虫の場合で考えてみます。
たとえば美しい蝶の標本でも、ラベルのついた標本である限り、あまり心は波立ちません。「何といっても、これは学術的に価値のある標本なのだから…」と、自分自身を納得させることができるからです。仮に自分の行為が学術的営為とは無縁だとしてもです。

しかし、モルフォ蝶の羽を敷き詰めた、お土産用の額となるとどうでしょう。
自分でも論理の一貫しない歪んだ意見だと思いますが、モルフォ蝶の額になると、無益な殺生という思いが前面に出て、ちょっと受け入れることができません。

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透明標本も、学術標本的相貌を保っているうちはよいのです。「これは教材なんだ。骨格の構造、ひいては生物の精妙さを考えるには、恰好の素材じゃないか」と涼しい顔をしていられるからです。

しかし、「ちょっと変わったインテリアにどうぞ」みたいな形で販売されているのを見ると、モルフォ蝶の額が連想されて、あまりいい気持ちはしません。なんだか罰当たりな気がします。

そしてその責め言葉は、ただちに自分自身に還ってきます。「君の大好きな“理科室趣味”も同じことだね」と。現に私の周りには生物の死体がいくつも並び、私はそれらを研究しているわけでも何でもなく、単に面白がっているに過ぎないので、まさに同罪です。

罪障感から逃れるために「供養碑」を立てたくなるのは、きっとこんな精神状態のときでしょう。供養碑を建てたところで、それによって救われるのは、当の相手ではなく、自分自身に他なりませんが。

コメント

_ じゃんく王 ― 2010年07月16日 22時08分57秒

1995年秋、上野の科博で特別展「人体の世界」が開かれました。はじめて目の当たりにしたプラスティネーションによる人体の標本はとても人間の死を連想させるものではありませんでした。見学のあとで科博の食堂で妻とハンバーグ定食を食べた思い出があるくらいですから。
しかしその数年後、同様の展示がデパートや百貨店で開かれていることを知り
その目的が営利主体の見世物興行の様を呈していてとても見に行きたいと
思えなくなっていた自分がおりました。

なにか似たような話かと思い御披露させていただきました。

_ 玉青 ― 2010年07月17日 07時15分43秒

そうです、そうです。
スケールは違いますが、意味合いは同じです。
死体を見世物にしたり、金儲けの具にしたらアカンと思います。

プラスティネーションも、本来は医学・生物学の研究や教育のためという、「高邁な」理由があって生れた技術なのでしょうけれど(というか、技術自体は高邁でも、罰当りでもなく、価値中立的なものでしょうが)、デパート展ともなると、完全に客寄せの見世物であり、罰当たり感が濃厚に漂ってきます。

プラスティネーション化された人は、生前それに同意されたのだと思いますが、自分がああなったら、ちょっと耐えられない気がします。それにいったん同意した人も、死人に口なしとは言え、改めて自分の姿を見たら、「ちょっとやめてくれんか」と言いたくなるんじゃないかなあ…とも思います。
(わが家のカエルや魚たちの場合は、本人の同意すらないので、その点も問題です。)

_ S.U ― 2010年07月17日 08時07分44秒

おぉ、この話題も考えさせられますね。(最近、御ブログには人をうならせる話題が多くなっているのでは?)

 「学究至上」、「無益な殺生は罪悪」というのは絶対真理として認めることを前提として、それだけで説明できるのでしょうか。幸いにして(?)、私は「死骸収集」の趣味はないので客観的に見られるのではと期待して、少し考えてみました。

 ここで、「芸術」についてはどうでしょうか。もちろん、「芸術至上」も当然あることでしょうが、どうやら、我々の心には、学問研究>生命倫理>芸術 という優先権序列ができているのではないでしょうか。芸術>見せ物、これはやむをえんことでしょう。

 ここで思い出したのは、「平成の玉虫厨子」です。私は、今年3月にこれを見る機会がありました。これは法隆寺にある実物でもなければその復刻でもありません。平成になってから「復刻版」と「平成版」の2つが作られその「平成版」のほうです。こちらは実物以上に玉虫を使っているそうで、主たる目的は「工芸技術の保存・継承」ということになっていましたが、できあがって展示されている作品は私には工芸技術研究成果というより芸術作品のように見えました。工芸については不明ながら、作っている様子はビデオで見ました。しかし、玉虫の羽を切って貼り付けるという技術ははたして継承すべき連続性のある技術なのか、という疑問があったのだと思います。ここで抱いた私の結論は、渾身作・平成玉虫厨子をもってして微妙な感じにおそわれ、生命倫理≒芸術 というところでした。

 芸術は生命倫理にその前提の一部をおいており、それを乗り越えられないのかもしれません。標本収集趣味の方々はどのように感じられますでしょうか。

(茶の湯美術館・平成玉虫厨子)
http://www.nakada-net.jp/chanoyu/tamamushi_zushi.htm

_ 玉青 ― 2010年07月17日 10時44分50秒

この話題は私も迷いつつ書いたので、取り立てて答はないのです。
自分の書いた文章を読み直すと、「じゃあ、君は学術的・学問的でありさえすれば、生物を捉え、殺し、瓶詰にしてもいいと言うんだね」と突っ込みを入れたくなりますが、私がここで書こうとしたのは、善悪の階梯を定めることではなく、いわば「納得」という心理的・情緒的な話題です。たまたま私の場合は、「学術的」というレッテルが、納得に結びつきやすかったというだけの話で、学問研究と不殺生戒の軽重について、万人に向けてアピールできる答を、私が持っているわけではないのです。
でも、こういうことは得てして自分の中でも混乱しやすく、じゃんく王さんへのお答の中では、その辺がゴッチャになっているかもしれません。

納得にも、「腹からの納得」、「うわべだけの納得」、「自己欺瞞的な納得」(そういうのを納得とは言わないかもしれませんが)等、いろいろあるのでしょうが、生物標本について言うと、私の場合かなり自己欺瞞的な要素があると思います。で、自分でも腹の底から納得しているわけではないので、モルフォ蝶の額やインテリア風透明標本などを前にすると、容易に動揺してしまうのです。その辺の思いを文字にしようと思い、今回の記事を書いてみました。

  +

玉虫厨子は、素朴に「これを仏様が喜ぶかなあ」という感想を持ちます。
貝殻を使った螺鈿細工と同じ、という理屈なんでしょうかね。
「2008年グッドデザイン賞受賞!!」というのも、なんだか軽すぎて、虫たちも浮かばれないような。

_ 玉青 ― 2010年07月17日 11時42分59秒

>芸術は生命倫理にその前提の一部をおいており、それを乗り越えられないのかもしれません。標本収集趣味の方々はどのように感じられますでしょうか。

最後の問いかけにお答していませんでしたね。
芸術を「表現行為」と読み替えると、ときに一般的倫理基準を超えて表現したい衝動に駆られることもあるでしょうし、場合によっては表現者自身の倫理観や良心を超えることすらあると思います。それが人間という種の性質なのかもしれません。
標本の収集や展示は、いわゆる「芸術」とは違うかもしれませんが、一種の「表現行為」には違いないので、同じことが言えそうです。

事実そういうことがあるとして、それをどう考えるべきなのでしょう。
倫理的基準に照らせば、もちろんよろしくないわけですが、それだと「倫理にもとることは倫理的に好ましくない」というトートロジーになってしまうので、別の物差しが必要ですが、この先は…。うーん、これは道徳哲学的話題ですね。勇んで書き始めたものの、手強い問いなので、もうちょっと寝かせてみます。

_ S.U ― 2010年07月17日 12時50分26秒

ありがとうございます。お考えよくわかりました。善悪、納得、倫理、表現活動は、道徳や良心のもとでは渾然一体となり、容易に分離しないです。また、標本収集家の方々の良心も人様々でそれぞれに深い思いがあるのでしょう。
 
 難しい問題は折々考えるとして、くどいですが平成玉虫厨子に戻りますと、私が学究至上としているように、工芸家の方は技術至上で、材料を生かしていかに巧みに美しく作れるかということしかないのでしょう。よくわかります。ただ、それを「技術の継承のため」と説明されたとき、木工、漆塗り、蒔絵はよいして、外国から輸入した材料に現代の技術を単発的に応用した平成の玉虫加工にどういう意味があるのか、とひっかかったところです。玉虫についてのみ言えば、一つの特殊な技術的実験だったのかと思います。

 でも、玉虫の羽あっての玉虫厨子で、これがなけりゃ、芸術的価値は別にして、ただの「豪華なお仏壇」ですよ。そういう意味で、現代に属する作品なのでしょうが、まあグッドデザイン賞はとらなかった方がよかったですね。

_ 玉青 ― 2010年07月17日 14時07分20秒

なるほど、S.Uさんの設問の趣旨がようやく分かってきました(遅すぎ)。

私なりに言いかえると、
“ことの善悪はさておき、技術至上を旨とする立場を認めるならば、技術のために他の生命を奪うことも「あり」だろうが(何せ技術至上ですから)、平成玉虫厨子の場合、タマムシの羽をペリペリ剥がして敷き詰めるぐらいのことで、「技術至上」を振りかざさんでも良いではないか。命の重みを考えたら、全然ペイしてないではないか。”
ということだと理解しました。

本当にそう思います。
技術至上を言うなら、現代の技術を駆使して玉虫の羽を人工的に再現し、それを敷き詰めた方がそのポリシーに叶ったかも。

(ときに飛鳥時代の人を貶めるわけではありませんが、玉虫の羽の利用は、加工技術もほとんど要らないでしょうし、当時の技術水準で考えても非常に安易というか、プリミティブな技法のような気がします。)

_ S.U ― 2010年07月17日 19時13分16秒

私のまわりくどい文章を直截的に述べるならばそういうことになりますね。どうもお手間をとらせしました。1時間に足らない美術館の観覧中に感嘆やら疑問やらいろいろな思いが浮かんだということでご容赦ください。

 玉虫の羽は湾曲してたり接着しにくいという独特の苦労があったそうですが、螺鈿細工や金箔押しも加工接着の困難は同様で、ただ方法が確立されているかどうかの違いだと考えれば、おっしゃるように玉虫の羽の利用ははるかに安易だということになりそうです。

_ 玉青 ― 2010年07月18日 06時05分30秒

人の営み、命の重み、御仏の心…観る者にいろいろな思索を迫る、その意味で、これは大変ありがたいお厨子なのかもしれないと思えてきました(合掌)。

_ S.U ― 2010年07月18日 08時30分07秒

あぁ、そうですね。特別展に私はじゅうぶん満足しました。また、今回は、標本収集についての思いも伺えてよかったです。
 初代の玉虫厨子もそういう意図からの発案だったとするとえらいものですね。

_ 玉青 ― 2010年07月19日 09時13分06秒

私も一連のお話の中でいろいろ思うところがありました。私の周囲の標本たちも、実は無常の理を静かに教え諭してくれているのでしょう。げにもありがたし(再度合掌)。では、この辺で語り納めといたしましょう。

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