無限の時、夢幻の出会い2012年07月30日 06時10分28秒

曼荼羅から一転してコミックの話題です。

最近、朝日新聞の読書欄で紹介された『シリウスと繭』の第1巻。
作者の小森羊仔(こもりようこ)さんにとっては、初の単行本だそうです。
天体観測の場面が出てくるというので、この本を手にとってみました。

   ★
 
(コミックカバーより。左から繭子、ハル、メグ)

物語の舞台は、坂が多く、星がきれいな町です。主人公は高校3年生の永野繭子。移りゆく季節の中で、彼女とクラスメートの北見晴(ハル)、そして繭子の親友・笹原芽美(メグ)の交感が、静かに綴られていきます。

ハルは、ときどきポータブル望遠鏡をかついで星見に行く天文好きの少年で、将来は自分の手でプラネタリウムを作ることを夢見ています。その夢は、幼い頃に亡くした父親の思い出とつながっており、そのことが彼のキャラに、ちょっと影のある、無口で大人びた性格を付与しています。

第1巻のストーリーは、高校3年の夏から始まり、翌年の早春、3人がそれぞれ別々の進路に踏み出すところで終わります。
ハルに苦手な勉強を教えてもらったことから、彼を意識するようになった繭子(そのときハルから恒星シリウスの話を聞き、彼女はハルとシリウスを重ねて見るようになります)。以前からハルに思いを寄せていたメグは、二人が徐々に距離を縮めていくのを、複雑な思いで眺めます。3人とも基本的に「いい人」なので、そこに切ない心のあやが生じます。

要は淡い恋物語なんですが、何なのでしょう、この全編を満たすかなしさは。
繭子とハルの恋は、時間とともに進展するのですが、その先には高校卒業という「終末」が控えており、そこに一種の無常感が漂っている感じです。

作中での繭子のモノローグ。

  退屈な授業や
  他愛のない会話
  わずらわしい校則
  夏の暑さ 冬の寒さ
  いつかは忘れてしまう時が来る事を
  きっと心の何処かで知りながら生活していた
  …いつか全てと「さよなら」をする時が来るという事も

思うに、これは人生そのものです。
仮に繭子とハルの2人が結ばれ、長く人生を共にすることになったとしても、それでハッピーエンドではなくて、やはりいつかは終わりが来る。人はみんなそのことを知りながら、気付かないふりをして生きているのだとも言えますが、この作品はそれを可視化したものだという気がします。

   ★

「最初に別れありき」というテーマは、同じ作者の短編「きみが死んだら」では、より徹底しています。そこで恋人たちに残された時間は、わずかに3日間。それがなぜかは、作品↓をお読みいただきたいですが、そこでも主人公の女性は、彼氏と身体を重ねながら、心の中で呟きます。

小森羊仔 「きみが死んだら」
 (集英社 2010年度「金のティアラ大賞」銀賞受賞作品)
 http://www.shueisha.co.jp/tiara-award/flash/book.html?list_num=04&title_name=kimiga_shindara

  残されている寿命が あと60年あるとしても
  わたしはそれを短過ぎると駄々をこねる
  残りが3日でも 60年でも
  もっと一緒に居たいって言うの
  あなたが生まれて初めて出会った
  恋をした女の子がわたしで
  それからずっと一緒に居られていたら
  そんなことばかり考えて 眠りにつくんだ

たとえ3日が60年に伸びても、別れの苦しみは変わらないし、反対に60年分の思いを3日間に詰め込むことだってできないわけではない。

   ★

「繭とシリウス」は、その繊細な自然描写においても出色です。
蝉が死に、トンボが交尾し、鈴虫が鳴き、クモの巣に冷たい雨粒が光り、雪虫が飛び…
虫たちの生と死、季節のめぐり、星のめぐり。
そこに展開する、ヒトの出会いと別れ。

この作品を読むと、ヒトの有限性に根ざす、心の中の「根源的寂しさ」といったものが、呼び覚まされる感じがします。と同時に、永遠というものを作者が見据えていることも、また確かだという気がします。いや、むしろ作者が言いたいのは、永遠は一瞬であり、一瞬は永遠であるということでしょうか。

本当は、主人公は高校生のカップルでも、年老いた夫婦でも、親子でも、きょうだいでも、誰でもよかったのかもしれません。それだけ普遍的なテーマだと思います。


(…と大上段に論じましたが、実は作者の小森さんが描きたかったことは全然別で、「切なくピュアなラブ・ストーリー」(カバーより)以上でも以下でもないのかもしれません。しかし、たまたま今の私が読んだら、上のように感じたということです。)

コメント

_ S.U ― 2012年08月02日 19時39分03秒

青春もののマンガやノベルスは苦手なので、作品の直接の批評はできませんが、高校生がすでにこういうことを敏感に感じ取っていることは経験上良く理解できます。

 卒業式が近づいてくると、現在は人生の中でとても貴重なひとときなのだろうな、とか、親しい同級生も卒業後は一生顔を合わせない人も多いのだろうな、とか考えます。それでも淡々と卒業式を迎え、「しょせん、人生とはそういうものだ」と割り切って、そのあとは別に別れを惜しむでもなくそのまま別れていきました。

 生物物理的に見ると、人間にとっての時間の長さというのは何に比較すべきなのでしょうか。時間が長い、短いなどと確かに感じますが、絶対的な比較基準が時間ほどないものはめずらしいのではないでしょうか。3日が長いこともあれば、60年が短いこともある、これは何の物理的時間との比較になっているのでしょうか。知りたいです。

_ 玉青 ― 2012年08月02日 20時24分13秒

物理的時間も普通に伸び縮みするそうですが、時間感覚(「経験される時間」)は、それに輪をかけて伸縮自在ですね。いわゆる生物時計は、そのベースに何らかの生化学的変化が関与していると思いますが、心理的な時間についても、独自の「時計」が脳内にあるんでしょうかね。現に時間経過を感じ取っている以上、何かそれを支えるメカニズムがあるはずですが、リアルタイムで感じる時間の遅速はさまざまですし、あとから想起する時間の長短も物理的時間と対応しないことがあまりにも多くて、本当に不思議な「時計」です。

>卒業式

高校の卒業式あたりだと、まだ先に夢も希望も新たな出会いもあるので、別れの儀式も「悲喜こもごも」という感じですが、どうも人生の卒業式については、その後に新たな出会いは期待できそうもないので(どうでしょう、新たな出会い、ありますかね?)、やっぱり寂しいし、今を大切にしないといけないなあと、殊勝に考え込んだりします。

_ S.U ― 2012年08月03日 07時10分42秒

>本当に不思議な「時計」
 人間の場合は、文明や科学・技術の進歩に人間の生理や心理がついてゆけず、時間感覚のバランスを失した状態がずっと継続しているのかもしれません。ネコやウシはどう考えているでしょうか。

>人生の卒業式~新たな出会い
 まだ急いで卒業したいとは思いませんが、このトシになると、向こう側にいるあの人と会って話ができる...などと空想するのもそれなりにいいんじゃないかと思えるようになりました。

 そのあと、世の人が自分のことを思い出してくれることなどまったく希望もしませんが、他人の潜在意識に時おりデジャヴュのようにお邪魔できたら楽しいかもしれません(迷惑でしょうけどね)。

_ 玉青 ― 2012年08月04日 09時12分39秒

真率なお言葉、ありがとうございます。
人生の卒業式の後は、新たな出会いというよりも、「再会」が待っているのかも…と考えると、死も恐るるに足らずと思えてきました。
しかし、「え、そうするとあの人に、また会わねばならんのか…」と頭を抱える人も少なからずいるでしょうから、これまた悲喜こもごもかもしれませんね。(^J^)

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