続・東大発ヴンダーの過去・現在・未来…西野嘉章氏の軌跡をたどる(2) ― 2013年04月23日 06時06分29秒
西野嘉章氏(1951-)。東京大学総合研究博物館々長。
元は美術史、特に中世の宗教美術を専攻されていた方です。
元は美術史、特に中世の宗教美術を専攻されていた方です。
(研究室の西野氏。「BRUTUS」 2008年8月1日号より)
西洋は知らず、日本におけるヴンダーカンマー・ブーム (まあ、ブームとまでは言えないにしろ、それをもてはやす一種の文化的ムーブメント)を考えるとき、その淵源は、澁澤龍彦の綺想エッセイや、1980年代に巻き起こった博物学ブームあたりに求められるでしょうが、それをさらに決定付けたのが、90年代に入って西野氏が仕掛けた各種のイベントだったと思います。
現在、各地の大学が古い学術資料(標本やら剥製やら)を学校の隅っこから引っ張り出してきて、博物館の体裁を整えていますが、そもそも、そうしたゴミのような資料(西野氏言うところの学術廃棄物)が、「陳列するに値するもの」であり、それどころか博物館の主役にもなり得るものだと知らしめたのは、ひとえに西野氏の功績ではありますまいか。
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西野氏は1994年に弘前大から東大に転じ、当初から大学に残された学術標本の評価と、その対外的な発信方法に腐心されてきました(…と勝手に断じていますが、私は西野氏にお会いしたことはないので、以下はすべて傍から見ての想像です)。
当時はまだ東大総合研究博物館はなくて、前身の東大総合研究資料館の時代(博物館のオープンは1996年)。もちろん、資料館時代にも展覧会は行われていましたが、ファインアートとの接点はありませんでしたし、「魅せる展示」にも気を配っていなかったと思います。そして最も欠けていたのが博物学的好奇心。
西野氏が東大に赴任した翌年、雑誌「芸術新潮」の1995年11月号は、「東京大学のコレクションは凄いぞ!」という特集を組み、その煽り文句は 「えっ、これは何?こんなものまで… 日本の最高学府・東大に眠っていた、希少かつ珍奇な「学術資料」たち」 というものでした。この特集自体、西野氏が仕掛けたメディア戦略の一環だろうと、私は睨んでいますが、ともあれ現在のインターメディアテクに通じる路線、言うなれば「アーティスティックなヴンダー路線」は、この時期に定まったと言えるのではないでしょうか。
上記特集の中で、西野氏は「希少ならざるはなく、珍奇ならざるはなし」という正味3ページほどの短文を寄せています。そこには氏の基本的視座が明快に述べられており、それこそが「博物誌的視座」でした。
「東京大学コレクション」には、およそ想像の許すかぎりのものが含まれている。その意味では、これは「コレクション」のコレクションなのである。それらも、とどのつまりがモノの集積にすぎぬわけだが、全体を見渡す博物誌的な視座さえ確保できるなら、かくも魅力的なものはないのではないか。二十万点を超える植物標本、五千体に及ぶ古人骨、明治から戦前にかけての乾板写真、東アジアの古文物、水産動物や昆虫の標本、古生物の化石、岩石鉱物の標本など、どれもが博物誌的宇宙の構成要素なのである。
〔…〕これらの量と質、多様性と偏在性、希少性と珍奇性こそ「東京大学コレクション」の魅力なのだろう。現代人が忘れて久しい博物学的な好奇心、それをこれほどまでに惹起する場所が他の何処にあろうか。 (『芸術新潮』 1995年11月号、p.65)

(この項つづく)
コメント
_ S.U ― 2013年04月24日 00時10分02秒
_ 玉青 ― 2013年04月24日 06時08分30秒
“「陳列するに値するもの」…と知らしめた”と記事中では書きました。それだと「潜在的な価値を見出した」というニュアンスになりますが、実は「新たな価値を付与した」、あるいはより積極的に「新たな価値を創出した」という方が近いのかもしれません。その意味で、西野氏の営為は、打ち捨てられた雑器に新たな美を認めた、千利休とか、柳宗悦とかのそれに類するものなのかなあ…とも思います。
一方ではそれまでの価値をきれいさっぱり失うものもありますし、本当にモノの価値とは何だろうと思い悩みます。
一方ではそれまでの価値をきれいさっぱり失うものもありますし、本当にモノの価値とは何だろうと思い悩みます。
_ S.U ― 2013年04月24日 06時59分05秒
これで、様々な物が捨てられずどんどん部屋に溜めていっている方々によい口実が出来たのではありませんか。
これら雑多なガラクタの内では、目には見えずとも日々新たな価値が静かに静かに生まれているのであるぞよ。
これら雑多なガラクタの内では、目には見えずとも日々新たな価値が静かに静かに生まれているのであるぞよ。
_ 玉青 ― 2013年04月25日 05時47分06秒
ははー!<(_ _)>
昨日の番組では、この世にゴミは存在しないと言い切っていましたね。
見方によっては全て宝なんだと。
まあ、見方によっては全てゴミとも言い換えられますが(笑)、ここはポジティブに解釈することにしましょう。
昨日の番組では、この世にゴミは存在しないと言い切っていましたね。
見方によっては全て宝なんだと。
まあ、見方によっては全てゴミとも言い換えられますが(笑)、ここはポジティブに解釈することにしましょう。
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確かに、ここ十何年かほどで、「陳列するに値するもの」の定義が変わってきたように思います。以前は、歴史を画した実物とか示準化石的な希少品が珍重されていましたが、今日では、普通に久しく使われたモノを保存することの価値が認められてきたように思います。
古書の世界では、1960年頃の何のことはない貸本や少年月刊誌がだいぶ以前から希少化していて高値がついていたのを意外に思ったものですが、実はこの傾向の走りをなしていたのかもしれません。