プラハの天文時計…(おまけ)2015年10月17日 09時31分15秒

話題収束と言ったそばから何ですが、昨日ぼんやり画面を見ていたら、このあいだの暦表盤の切手と同じ1978年に、こんな切手シリーズが、チェコで出ていたのを知りました。


アストロラーベ盤、聖人像、暦表盤の細部…等々、天文時計の各部を巧みにデザインした佳品。折もよし、ちょうどオルロイの連載を終えた自分への褒美とします(といっても、送料込み500円の気軽なプレゼントです)。

なお、上の写真は商品写真の流用で、実物はこれから届く予定。

プラハの天文時計…(6)2015年10月16日 20時50分54秒

プラハの天文時計の話題をもう1回だけ。


葉書サイズのペタンと平たい紙細工。
その角を直角に起こすと…


見事なプラハ・オルロイが!
ポップアップカードは昔からありますが、最近のものは驚くほど完成度が高いですね。


レーザー加工技術が可能にした、新時代の「起こし絵」です。


その立体感に少なからず感動しました。

   ★

こうして天文時計そのものを、ついにわが物としたので、この話題もひとまず収束させます。(なお、このカードはチェコではなく、ウクライナで作られたものと聞きました。)

プラハの天文時計…(5)2015年10月15日 06時53分05秒

(昨日のつづき)

暦表盤の謎を探るため、まず基本文献をチェックすることにしました。

以下は、Henry C. King 『Geared to the Stars』(1978) から、プラハの天文時計の歩みを概観したパラグラフの適当訳です。(原文は全体が1パラグラフですが、読みやすいよう適宜改行しました。文字だけだと分かりにくいので、ウィキの絵入り解説と併せてお読みください。)

(この大著の冒頭を飾る口絵は、まさにプラハ・オルロイ)

 「プラハの天文時計はとりわけ興味深い。それは、街路から見える文字盤とからくり人形が興味深いというにとどまらず、度重なる修繕と改修にもかかわらず、その主要な外観が多くのオリジナル部位を残しており、15世紀初頭の形態をしのばせるからである。

Z. HorskýとE. Procházka を読むと、この時計は当初アストロラーベ盤しか持たなかったことが分かる。アストロラーベ盤は、同心環によって囲まれ、環はイタリア時間またはボヘミア時間を示すよう、日没時に手動でゼロに調整された。文字盤の周囲は(今もそうだが)石工Peter Palerによる動物彫刻のモチーフで飾られ、動く人形は骸骨模型が唯一で、日没とともに始まる時刻に合わせ、1時間ごとに打鐘装置(striking-train)が時を告げた。

1490年頃、Jan Růzě が指揮した追加作業の中には、おそらく暦表盤の付加が含まれていただろう。暦表盤は手動でセットしたが、主円盤上のボヘミア時間を示すリングとクランクで連結されていた。

その後、1566年にJan Táborskýが、暦表盤に独自の駆動装置を取り付け、アストロラーベ盤の外縁に、現在あるような二組の12時間目盛り(1つは正午に始まり、もう一つは真夜中に始まる)を付け加えた。さらに4年後〔1570年〕、彼はこの時計に関する貴重な手書きの解説文を書き終えている。

1629年もしくは1659年、さらなる改良が加えられ、そこには自転軸を中心に月球を回転させる装置と、新たな打鐘装置の組み込み作業が含まれていた。6人ずつ二組に分けられ、正午になると手動で動かす十二使徒像が加わったのは、少なくとも1659年以降のことであり、あるいは時代はもっと下るかもしれない。

1865年、その頃は完全に放置状態にあった時計に、新たな技術変革が加えられた。すなわち、新しい打鐘装置が取り付けられ、チェコの画家Josef Mánes が暦表盤を描き直し、旧式のフォリオット式脱進機が外された後に、クロノメーターが時計仕掛に加わったことで、伝動装置は1分間隔でリリース可能となった〔←この辺のテクニカルな説明はよく分かりませんが、時計の心臓部に思い切った現代化が図られたのでしょう〕。

時計は1945年5月8日の市街戦で大きな被害を受けたが、その後、新しい暦表盤(オリジナルデザインを写したもの)と、毎時報ごとに動く新しい十二使徒像が与えられた。」

なるほど、この古風な時計も、結構ひんぱんに改変されているんですね。今ある姿を、中世そのままと思ってはいけないようです。

肝心の暦表盤に話を戻すと、取り付けられたのはおそらく1490年で、当初は手動で回していたのが、1566年に機械化され、さらに1865年に盤のお色直しが行われた後、今ではその複製品に置き換わっている…という流れのようです。

でも、この「お色直し」が単なる塗り直しを意味するのか、あるいはまったくの描き下ろしなのか、さらに複製版を作ったのは誰なのか、ちょっと曖昧な点が残ります。

   ★

疑問を抱えて、さらに検索していたら、次のページに出会いました。ここにはかなり詳しい事情が書かれており、信頼できるものと思われます。


■The Prague Astronomical Clock: Mánes’ calendar plate
 http://www.orloj.eu/en/orloj_manes_kalendar.htm

それによると、1865年に暦表盤の修復を行なったのは、キングの本にあるとおり、画家のヨゼフ・マーネス(Josef Mánes、1820-1871)で間違いなさそうです。

(Josef Mánes、1820-1871)

マーネスは、以前の古い暦表盤のデザインを生かしつつ、このいかにも中世風な作品を描き上げました。したがって、この暦表盤は彼のオリジナル作品といってよいものです。そこには、当時のチェコで高揚していた民族主義の影響もありました(西欧のゴシックリバイバルと似た現象かもしれません)。

マーネス自身、尋常ならざる熱意をもってこの仕事に取り組みましたが、彼にとって不幸だったのは、発注した市側が彼に十分な代価を支払わず、しかも仕事にいろいろ横やりを入れてきたことです。

きわめてストレスフルな状況で、もともと丈夫でなかった彼の健康は、徐々に蝕まれていきました。友人たちは「天文時計に関わったものは早死にする」という古来の言い伝えを告げ、彼を諫めましたが、彼のこの仕事にかける情熱はそれを上回り、1866年8月、ついに暦表盤は完成しました。完成した暦表盤は幸い大好評で、はなやかなお披露目式が行われましたが、作者マーネスは既に病の床にあり、式典には出席できませんでした。

その後、「これほど見事な作品を雨風にさらしては勿体ない、代わりにコピーを取り付けてはどうか」という意見が起こり、E. K. Liška(1852-1903)が指名されました。現在時計塔に掲げられているのがそれです。

皮肉なことに、複製盤作者のリシュカに支払われた代金は、マーネスのそれを上回るものでした。1882年の元旦、複製盤のお披露目式が再度はなやかに行われましたが、列席者のうち、オリジナル盤の作者マーネスが、11年前に亡くなっている事実に思いをはせた人が、はたしてどれ程いたか…。

   ★

というわけで、最後は思わぬ人間ドラマになりました。
歴史というのは、やはり常に興味深いものです。

(この項つづく)

プラハの天文時計…(4)2015年10月14日 06時51分29秒

今日の主役は、天文時計本体の下に取り付けられた暦表盤です。


写真は1978年、プラハで開かれた国際切手展を記念してチェコで発行された、美しい切手。



(金色に赤と緑がよく映えています)

実物はこちら。画面をクリックすると細部まで確認できます。

(ウィキメディアコモンズより)

最外周の細かい文字は、その日の守護聖人や祝日を書き込んだ教会暦、内側の彩色画は、四季の農事や十二星座を円形に配したものです。この暦表盤も時計仕掛で、1年かけてゆっくり回転します(ただし中央のプラハ市章を描いた円盤は、周囲から独立しており、常に直立不動)。

  ★

ところで、例によって記事を書くにあたって、ウィキペディアの「プラハの天文時計」の項(http://tinyurl.com/oyxyw78)を真っ先に読んだんですが、そこにはこの暦表盤について、ちょっと矛盾することが書かれていました。

すなわち、最初のほうには「おそらく1490年ごろに暦表盤の追加と時計本体へのゴシック彫刻による装飾が施された」とあるのに、後のほうを見ると、「時計の下の暦表は1870年に追加された。」とあります。いったいどっちが正しいんでしょうか?

次いで英語版Wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Prague_astronomical_clock)を見たら、前者については全く同じ記述になっていましたが、後者については、「時計の下の暦表盤は1880年に複製に置き換えられ、オリジナルはプラハ市博物館に保管されている」とありました。日本語版はたぶん英語版の直訳でしょうが、この箇所は(事実誤認を含む)古い版を参照したのだと思います。

   ★

では、英語版が全面的に正しいかというと、その外部ソースには、またちょっと違ったことが書かれていて、なんだか混沌としています。


(暦表盤の謎を追って、この項つづく)

プラハの天文時計…(3)2015年10月13日 06時35分34秒

何事にも歴史あり。
天文時計しかり、そしてまた天文時計のお土産品しかり。


今、手元に3種類のメカニカル・ポストカードがあります。
真ん中のが、昨日ご紹介した1930年代のもの。
左側のはもっと古い、1900年ごろのもの。


印刷は当時目新しかったハーフトーン(網点)で、そこに手彩色を施してあります。
中に仕込んだ回転盤で、使徒が順繰りに顔を出す仕掛けは、後の物とまったく変わりませんが、写真をそのまま生かして細工しているのが珍しい。この種のものとしては、たぶん最初期の品でしょう。

(裏面)

住所欄と通信欄が区分されていないのは、古い絵葉書に見られる特徴。
表示は、チェコ語、ドイツ語、ハンガリー語、ポーランド語、フランス語、イタリア語、ロシア語と、人々が複雑に往来する中欧チェコの横顔が垣間見られます(なぜか英語はありません)。


シルクハットに白手袋の紳士が、いかにも大時代。

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替わって右側のは、絵葉書というには丈が長すぎて封筒のようですが、用途はやっぱり絵葉書です。時代はぐっと下って、戦後も1970年ぐらいのもの…と書きかけて検索したら、ちょうどeBayに同じものが出品されており、チェコの売り手がその来歴を書いていたので、便乗します(関心のある方はItem No. 220843598484をご覧ください)。

(ダイヤルに使徒の名を表示したのは良い思いつき)

それによれば、この絵葉書はプラハのオデオン出版が1968年に発行したもので、絵の作者は、プラハで活躍した建築家・画家のヴォイテフ・クバシュタ(Vojtech Kubašta、1914 – 1992)。彼は4歳の頃から絵の才能を発揮し、法律家の道を歩ませたかった父親の意志に反して画家となった…と、件の売り手は書いています。

   ★

「プラハの天文時計のお土産絵葉書」という、至極些細な品にも、そこにはたしかな歴史の歩みがあります。そして、その小さな歴史には、同時に大きな歴史が反映しています。

上の絵葉書が出た1900年頃は、まだオーストリア=ハンガリー帝国の治下でしたから、画面の雰囲気が大時代なのも当然です。その後、2つの世界大戦という惨禍を経験し、戦後は共産主義国家となったチェコスロバキア。そして、クバシュタの愛すべき絵葉書が出た1968年は、ちょうど「プラハの春」の年でした。国民は新指導者のもと、自由と民主化の夢に酔いましたが、それもソ連の軍事介入であっけなく踏みにじられ、彼の地の人々は再び暗い時代に沈んでいったのです。

(天文時計の話はまだ続きます)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

「哲人政治」という言葉があります。
まあ、理念としては良いのですが、大抵の哲人は政治家向きではないので、現実には失敗することが多いようです。かといって、愚人に政治を任せて良いことは何もありません。そして、今の政治はどうもそうなっている気配が濃厚です。
別に「哲人」でなくてもよいので、良識があること、視野が広いこと、そして胆力があること、そうした条件を兼ね備えた人に、政治のかじ取りをしてもらいたいと、心底思います。

プラハの天文時計…(2)2015年10月12日 09時15分01秒



プラハ土産の定番だったらしい、メカニカル・ポストカード。
水彩をオフセットで印刷してあります。


右側の黒いダイヤルを回すと、実際の天文時計と同じく、上部の小窓に十二使徒が順に姿を見せる愛らしい品。かなり長期にわたって売られたようですが、手元のものには1934年の消印があります。


この天文時計の要は、何といっても中央のアストロラーベ風表示盤です。

そのグルグル回る文字盤と複数の指針によって、太陽と月の日周運動、両者の天球上での位置、プラハ時間(普通の時刻)と古チェコ時間(日没を基準にした古式時制)の2種類の刻限などが示されるのだそうです。(その美しいカラーリングは、水色が昼間の青空を、オレンジ色が朝暮を、黒が夜空を表わしている…というのは、感覚的にも分かりやすい工夫ですね。)

とはいえ、行きずりの観光客からすれば、そうした「ヤヤコシイ話」は脇に置いて、面白おかしいからくり人形の動きに目が行くのはごく自然で、この絵葉書もそうした嗜好に投じたものでしょう。


この絵葉書は、アメリカ人旅行者が故郷の知人に宛てたもの。
血生臭い戦争が激化するには、まだしばし間がありました。

(この項つづく)

プラハのオルロイ(天文時計)…(1)2015年10月11日 15時54分46秒



先週、グーグルのロゴがプラハの天文時計になっていて、オッ!と思いました。
さらに説明が、「プラハの天文時計 建立605周年」とあって、オッ?と思いました。
“あと45年待って650周年にすればよいのに、なぜ605周年?”…というのは、どこかに説明が書いてあったかもしれませんが、その場の疑問は深かったです。

まあ、45年後にはグーグルもこの世界も、どうなっているか分からないので、祝えるうちに祝っといた方が賢明なのかもしれません。でも、中世の人はゴシックの大聖堂を築くのに、100年単位でコツコツ取り組んでいたと聞くと、当時と今ではずいぶん違う「時(とき)」を生きているなあ…と改めて思います。

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モルダウ河畔に、美しい百塔がそびえ立つ、古都プラハ。
人並み外れて出不精の私ですが、いつかは行ってみたい場所の1つです。
地図で見たら、天文時計もモルダウ(ヴルタヴァ)河から、300メートルそこそこの所にあるんですね。


ここは昔も今も観光名所なので、古い絵葉書には事欠きません。

(1900年代初頭の絵葉書)



今さらながら、こうして見ると実に立派です。
第2次大戦で大きな被害を受けたものの、その後見事に修復され、今も昔に変らぬ姿を見せていますが、ここではその足元を行き交う人々の姿が、いっそ興味深いです。かごを背負った女性など、まるで17世紀の人のようです。


現在はと言えば…

(2009年撮影。ウィキメディアコモンズより)

もはや帽子の紳士はいないし、17世紀みたいなお婆さんもいません。
そもそも女性はみなパンツスタイルです。
たかが100年、されど100年―。変われば変わるものです。

   ★

グーグルに義理はありませんが、この機会にプラハの天文時計の話題をちょっと続けます。

(この項つづく)


【付記】 そういえば、先日登場したシルエットの天文時計も、よく見たらモデルはこのプラハのそれでした。

(画像再掲)

不思議の国の天文時計2015年09月28日 20時27分45秒

愛らしい天文時計といえば、こんな品もあります。


アリス風の少女が、猫の背に乗って天文時計のネジをきりきり巻いている、不思議な影絵芝居。

造形作家・川口喜久雄氏(シルエット工場主宰)の作品で、以前も猫が望遠鏡を覗くユーモラスな作品をご紹介しました。



6.5センチ角のアクリルケースに閉じ込められた黒い影たちの世界。


影というのは、実体あっての影のはずですが、この影の世界の住人は、さらに足もとに影を落としており、いったい何が実で何が虚なのか、見ているうちに頭がボンヤリして、昔習ったプラトンの「洞窟の比喩」(我々が実体と思いこんでいるのは、ひょっとして洞窟の壁に映る影のようなものに過ぎないのではないか?)を思い出したりします。

お伽の国の天文時計2015年09月27日 20時17分24秒

時刻と同時に、月の運行や、惑星の位置、星座の動きなどを表示する「天文時計」というのを、ヨーロッパの街角で折々見かけます(私の場合、写真やテレビで見るだけですが)。あれはいかにもお伽チックな、「欧羅巴」的な匂いのするものです。

中世の終わりからルネサンスにかけて、ああいうからくり仕掛けが各地で流行り出したのは、都市化によって人々の「時」や「暦」に対する観念が変りつつあったことの反映であり、同時に諸侯や自治都市が富と権力を誇示する意味合いもあったのでしょう。

それだけに、時として「恐れ入ったか!」とばかりに、見る人を威圧するようなデザインの天文時計も見受けられます。

そんな中、下の天文時計はわりと小造りの、いかにもお伽の国から飛び出したような愛らしさがあります。


ベルギー北部、リールの街に立つ、Zimmertoren(ツィマー塔)の絵葉書。

古めかしい絵葉書ですが、消印は1952年なので、そんなに古いものではありません。でも、古めかしく見えるのも道理で、この絵葉書は何と石版刷りです。戦後になってからも、石版がこんなところで使われていたと分かる、貴重な作例です。


キャプションが、オランダ語(上)とフランス語(下)の2本立てになっているのは、両国語を併用しているベルギーならではでしょう。


この塔の下に立って見上げると、たぶんこんな雰囲気。


肝心の文字盤はこんな感じです。てっぺんの球は月の満ち欠けを示すムーングローブ、一番下にあるのは地球儀で、その他10個の文字盤が、中心の大時計を取り巻いています。

   ★

驚くべきことは、このいかにもメルヘンチックな時計が、中世・ルネサンスなんぞでなく、20世紀に入ってから作られたものであることです。

たしかに、時計を取り付けた塔そのものは、14世紀にさかのぼる歴史的建造物(古い城砦の一部)に違いないのですが、そこに天文時計を取り付けることを提案し、それを寄贈したのは、時計メーカーにして、自ら天文家であった Louis Zimmer(1888-1970)で、時計の据え付けが終ったのは、実に1930年のことでした。

ツィマーはさらに1960年には、この塔の隣に「驚異の時計(The Wonder-Clock, 蘭:Wonderklok)」というのを据付け、その何が驚異かといえば、その針の回転は世界で最も遅く、一周するのに2万5800年もかかるという代物だそうです。(2万5800年というのは、地球の歳差運動、すなわち地球の自転軸の向きがゆっくり回転している現象に対応するものです。)

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…というようなことを、今回 Wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Zimmer_tower)を読んで知り、世の中聞いてみないと分からないことが多いなあと感じました。

上のリンク先には、文字盤の詳細の説明も載っているので、とりあえず画像だけ貼っておきます。



お宝オーラリー2015年09月21日 17時15分23秒

いろいろなことがあり、「天文古玩」本来の記事を書くのは久しぶりなので、勘を取り戻すために、今日は絵に描いたような天文古玩を登場させます(といっても、他人のふんどしです)。

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先日、アンティーク望遠鏡のメーリングリストで、「望遠鏡じゃないけれど、これは一見の価値あり(It's not a telescope, but it's quite spectacular.)」というタイトルでメールが流れてきました。そこでリンクを張られていたのが、ドーンとこれ。


ボーナムズというのはイギリスに本拠を置くオークション会社で、サザビーズやクリスティーズほどではないものの、1793年創業の立派な老舗だそうです。

来たる10月27日にロンドンで開催される同社のオークションは、「科学・技術・からくり音楽の機器類」を集めた売り立てで、そのロット番号104が、この見事なオーラリー。

ハンドルを回すと、水・金・地・火・木・土・天の6惑星が、太陽の周りをゆっくり回るという雅味に富んだもので、本体は真鍮、惑星は象牙の削り出し。

(でもこの象牙のせいで、米国には持ち込み禁止と註が付いています。これはお体裁で書かれているわけではなく、アメリカではオバマ政権になってから、象牙品の輸入が―たとえ歴史的な品でも―厳格に制限されていて、今や「ご禁制品」扱いの由。)


オーラリーの右下に見える、木製台座に乗ったのは、「テルリウム」(左)と「ルナリウム」(右)だと説明には書かれています。

ここに出てくる「オーラリー」「テルリウム」「ルナリウム」は人によって用法が異なり、用語にかなり混乱が見られますが、上記のテルリウムは、太陽の周りを公転する地球の動きを、ルナリウムは地球・月・太陽の三者の位置関係を示す器具だと説明にあるので、要は「二球儀」と「三球儀」のことです。まあ、名称はともあれ、いずれも見事な工芸品の域に達していることは異論のないところでしょう。

これらはいずれもイギリスのMatthew Berge の作品で、バージは天文ファンには「ラムスデン式アイピース」でおなじみであろう、Jesse Ramsden (1735-1800)の下で職長として働いていた人物。ラムスデンの死後は、その工房を引き継ぎました。したがって、これらの機器も1800年をあまり下らない時期に作られたものと考えられています。(以上はボーナムズの文章の受け売り)

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さて、気になるお値段の方は、落札予想額 5万~7万英ポンド、日本円で 930万円~1,300万円と出ています。これはかなり強気の値付けだと思いますが、話半分としても相当なものです。

いったい誰が買うんでしょうね。
これぐらい隔絶していると、羨ましいとか、妬ましいという気も起こりませんが、買った人はぜひ大事に持ち伝えて、次代に無事引き継いでほしいと願うばかりです。

(ブログの方は、少しづつリハビリを始めます)