天体観測猫2012年07月02日 21時27分55秒

今日は太陽がカッと照り付けて、とても暑い日でした。
昨日は早くも熱暴走でノートパソコンが落ちました。今年初落ち。
今からこれでは先が思いやられます。

   ★

このブログは、左欄に見られるとおり、カテゴリーがごちゃごちゃと多いのですが、過去記事を読み直してみて、自分でもわりと面白いと思えるのは「こまごまグッズ」という項目。あまり「うんぬんかんぬん」の考証がなくて、肩のこらない点が良いのでしょう。
暑くなると、あっさりした記事を書きたくなるので、これからしばらくは、こういう路線で行ってはどうかと思いました。

たとえば、こんな品はどうでしょう。


どうです、かわいいでしょう。
薄い金属板を正確に切り抜いて作られた、影絵風のオブジェ。


その平面的な造形の足元を見ると、そこには「影の影」が…。

アクリルケースのサイズは6.5センチ角。
この手のひらに乗る小さな異空間は、造形作家・川口喜久雄氏(シルエット工場主宰)の作品です。氏の猫シリーズは、以下で販売中。

■ネコランド:ねこのざっか屋さん
 http://nekoland.jp/SHOP/g7639/list.html

観測スケジュールが多忙で、それこそ猫の手も借りたい方にお勧めです。

   ★

それにしても、猫の見上げる星空って、どんな感じなんでしょうね。
猫は人よりもはるかに夜目がきくので、裸眼でも人間よりずっと暗い星まで見えているはずです。猫族が望遠鏡を覗いたら、そこには天体写真なみの光景が広がっているのかも。


コメント

_ ねこぱんち ― 2012年07月02日 22時53分11秒

初めてコメントします。
稲垣足穂や長野まゆみに興味があったので、理科少年について捜していたら素敵なHPが見つかったのでよかったです。
「一千一秒物語」にも猫が出てきますし、長野作品に猫は欠かせないので、猫と天体の組み合わせ、個人的にも絶妙です。

_ たつき ― 2012年07月03日 18時30分08秒

この方の作品は、神奈川県の横須賀美術館のミュージアムショップでみたことがあります。欲しかったのですが、所詮は紙だろうと思ってあきらめました。しかし、そうではなかったと知って後悔しきりです。
また行ったときにあったら、絶対に買います。
よいことを教えていただき、ありがとうございました。

_ 玉青 ― 2012年07月03日 21時48分54秒

○ねこぱんち様

コメントありがとうございます。
稲垣足穂、長野まゆみ、理科少年…
同じ趣味嗜好の方に出会えて、とても嬉しく思います。
これからもどうぞよろしくお願いします。

猫は本来的に夜の住人ですから、星や月の仲間といってもいいのでしょう。
そして、あんなにも曲線的で、柔らかく、温かいのに、
なぜ鋭角的で冷たく感じてしまうのか… 改めて猫って不思議ですね。


○たつき様

このかわいらしいシルエット、ミュージアムショップでも扱ってるんですね。
まさに小さなアート作品といったところでしょうか。
ぜひ、たつきさんも、このシャープな造形をお手元で愛玩されてください。
拙記事が、多少なりともたつきさんの参考となったようで幸いです。

_ ねこぱんち ― 2012年07月03日 22時53分01秒

やたら猫に拘りましたが、実際猫を飼ったことはありませんのであしからず。(笑)
猫と理科趣味は自由気儘で優美であるといった意味でも相通じるものかもしれませんね。(「科学」では強力な獅子や虎といった感じですかね。)
奇しくも本朝理科文学の巨人、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」が猫のキャラクターで映画化されます。(御覧になりますか?)
何かと猫と理科も縁があるのですね(笑)

_ S.U ― 2012年07月04日 07時28分25秒

「ねこのざっか屋さん」の猫は月が好きなようですね。私は、漱石先生の吾輩猫の最期を思い出してちょっと気の毒になりました。

 昔飼っていたころに見たところ、猫はたしかに夜行性なのですが、夜間、望遠鏡やカメラを出して星を見ていて猫がその邪魔にやってきたという記憶はないです。昼間は、人の近くに来て寝転がったり食べ物をねだったりしますが、夜は野性に生きているのだと思います。

_ 玉青 ― 2012年07月04日 21時16分18秒

○ねこぱんちさま

「ネコ:トラ=理科:科学」の関係ですね。
ええ、これは非常によく分かる気がします。
すると「トラ×理科=ネコ×科学」の関係だから、えーと……こちらは全然分かりません。(笑)

>「グスコーブドリの伝記」

今パパッと見たら、ちょうど七夕の日に公開ですね。「銀河鉄道の夜」の連想も働くので、賢治気分には至極ふさわしいタイミング。そして猫のキャラクターといえば…あ、やっぱり、ますむらひろしさん。ブドリはもちろん好きですが、ただ、私はどうもますむらさんと相性が悪いので、見に行くかどうかは一寸微妙なところです。。。

○S.Uさま

まあ、漱石の猫は、あれはあれで恬淡とした最期で良いのかも。
ご本人もわりと悟ったような口ぶりでしたしね。
ときに私はといえば、あの月と猫のシルエットに、朔太郎的情緒を感じました。
(あくまでもイメージです。私が朔太郎作品に親しんでいるわけではありません。)

>夜は野性に生きている

なるほど、昼間は「猫をかぶっている」わけですね。(笑)

_ S.U ― 2012年07月05日 18時46分19秒

>昼間は「猫をかぶっている」
 ほう、猫だけは特別で、猫をかぶってもかぶらなくても猫ですか。
猫をかぶった猫が 猫×猫 なら、昼の猫÷夜の猫=夜の猫 ですね。

_ 玉青 ― 2012年07月05日 22時14分54秒

おや、騒動の渦中にいらっしゃる方が、
こんなところで猫の式をもてあそんでいてよろしいのですか?(^J^)

それにしても、各紙一面トップの扱いですね。
でも、今のところ書き手も読み手も、何だか心もとない感じがあって、その戸惑いが事の重大さを示しているようです。(みんなが素直にワッと驚くようでは、世紀の大発見とはいえないでしょうから…)

_ S.U ― 2012年07月05日 22時56分36秒

>騒動の渦中
 おっと、そっちの話ですか。
 私はヒッグス探索班ではないので渦中にいるわけではありません。鳴門の観潮船に乗っている程度です。
 30年ほど前に「たぶんあるんだけどまだ見つかってないんじゃよ」と習ってから、直接探したことはありませんが、ずっと忘れることなく今日まで延々と来ていて、2年ほど前からは2012年には見つかると言われ、そして昨日見つかったと言われたわけで、突然ものすごい感銘を受けるものではありませんね。30年間未来形であったものが完了形になった、ということです。感銘という意味では、一つのモノを大勢で何十年努力して探す、それで実際に見つかる、科学上の発見のパターンが変わったなぁということでしょうか。「発見史」の立場から考察すると面白いのではないかと思います。
 
 ところで上の猫の式もちょっと関係があって、素粒子がヒッグス粒子の作用で質量を獲得する様子は、ちょうど動物Aが猫をかぶって「A×猫」になる状況と似通っています(くれぐれも真面目に考えないで下さい)。

_ 玉青 ― 2012年07月06日 07時40分48秒

>30年間未来形であったものが完了形になった

「ワーッ感激!」というよりは、「瞑目して感無量」という感じでしょうか。
数学の世界でいう「ナントカの予想」が証明されたような、しみじみした感動ですね。

>猫の式

なるほど、万物は、世界は、猫をかぶっていると。
そして、その真の姿は、深い夜の訪れとともに顕れる…
と、意味ありげに書いてみましたが、畢竟ナンノコッチャ。(^J^)

_ S.U ― 2012年07月06日 20時33分12秒

>その真の姿は、深い夜の訪れとともに顕れる
 はい。あたらずといえども遠からずです。
 少なくとも基本的なフェルミ粒子とウィークボソンは、生来は無質量なのですが、猫をかぶることによって質量を獲得しています。しかし、このかぶっているのは真空中にあるいわば「猫の雰囲気」であって、生きた猫ではありません。そこで、加速器を使って、猫の雰囲気に対してエネルギーをヤッと一点注入してやると、ぼろっと生きた猫が出てくる、是れ即ち今回のヒッグス粒子の発見です。(くれぐれも真面目に考えすぎないようにしてください)

_ 玉青 ― 2012年07月07日 11時11分54秒

>猫の雰囲気…生きた猫が出てくる

うーむ、深遠です。
かなり真剣に考えてしまいました。(考えた結果については言わずもがなですが;)
按ずるに、メディアがヒッグス粒子について語る際、「水あめの比喩」が好んで用いられているようなので、少し幻想味を帯びた新たな喩えがあってもよろしいかと。

_ S.U ― 2012年07月08日 06時52分17秒

>メディアがヒッグス粒子について語る際
メディアが素粒子物理の成果について語るとき、難しいとか理解しにくい、とか言いながら、比喩を挙げてそれでも腰が引けた説明をしているのを複雑な思いで見ています。難しくて理解しにくいのは、素粒子に限らず、物質構造学でも電子工学でも経済学でも変わらないと思うのですが、素粒子物理はどこが違うのか考えてみますと、どうもこの「比喩」に一つの問題があるようです。
 
 つまり、「比喩」(より広い意味で「モデル」と言い換えてもいいですが)をどこまで真剣に考えるかという「手加減」がわかりにくいということではありますまいか。この手加減というのは、大きな豆腐があったとしてどうやって持ち上げるか、壊れているドアを力任せに開けて良いかという手加減です。これは、一般の方はもちろん、関係者もあるていど経験を積まないとさっぱりわからんというところがあります。
 「水あめの比喩」も「それじゃ、物体が通ると、摩擦が起こったり乱流が起こったりして、どんどん減速するんじゃないか」というところまで真剣に考えると、慣性の法則が崩れます。崩れていいはずはありませんので、いろんな比喩を並べるしかないのでしょうか。

 「素粒子物理や量子力学は、つきつめていうと、所詮は(専門家であっても)比喩以外の方法では理解できない」ということを学生時代に議論したことがあります。どうなんでしょうねぇ。いまだにわかりません。

_ 玉青 ― 2012年07月08日 09時45分08秒

比喩はあくまでも比喩なので、「そっくりその通りではない」という当然のことを、どこかで言わないといけないですよね。でも、そうすると説明が冗長になって、比喩の効果が薄れてしまうという矛盾が生じます。まあ、この辺はどこまで正確に内容を伝えたいか、目標をどこに置くかによっても匙加減が変わってくるのでしょう。

今、ぼんやりと、“もし、紙面に余裕があれば、「カソクキッズ」のように、「ボケとツッコミ」の掛け合いで説明すると分かりやすいのかもしれないなあ…”と考えました。
そして、そこからさらに思ったのですが、啓蒙書/啓蒙記事というのは、昔から今に至るまで会話体で綴られたものが多くて、もっとさかのぼれば、釈迦も、キリストも、孔子も、ソクラテスも、みな真理をダイアローグの中で開陳し、弟子たちもその中で感得するということを繰り返してきたように思います。ダイアローグの持つ力を感じるとともに、諸聖人は(そして良き教師は)みな比喩の使い方が上手かったなあ…と改めて思います。

おそらく、比喩やモデルというのは、固定した静的なものではなく、対話の中で常に成長・発展するものであってこそ、その大きな意義があるのかもしれませんね。

>素粒子物理や量子力学は、つきつめていうと、所詮は(専門家であっても)比喩以外の方法では理解できない

この辺は「理解とは何か」という古くからの問いとも関係するのでしょうね。
素粒子物理学なんかの場合は、「(主観的には)理解できないにしても、対象を記述することはできるし、予測もできる」という状態が、むしろ常態なのかもしれませんが、「それを理解と言ってはいけないのか?」と思う人もいるでしょうし、「所詮は理解の定義の問題さ」と言ってしまうと、身も蓋もないですが、うーん、どうなんでしょうねえ。

_ S.U ― 2012年07月08日 20時39分40秒

>「理解とは何か」という古くからの問い
うーん。私たちの議論は、物理専攻の学生が量子力学や素粒子力学がせめて古典力学や光学、電磁気学に近い程度に把握できないかという苦し紛れの動機のものでしたので、そういう高尚な議論に属するものではないと思うのですが、結局はそこにたどり着くのかもしれませんね。

_ 玉青 ― 2012年07月09日 06時10分36秒

>苦し紛れの動機

学生の立場からすると切実ですね。(^J^)

まあ、この話は高尚というほど高尚でもなくて、日常レベルでも、「<分かる>ということが分からない」一種の不全感に悩む人は結構多いようです。(重度の場合には精神疾患の症状としても数えられます。)
そういう人からすると、逆に「古典力学は何故<分かった>感覚が伴うのか?」という逆向きの問いを立てたくなるかもしれませんし、いろいろ考え出すと、「分かる」とは何なのか、だんだん分からなくなってきます。(ちょっと高尚めかして言えば、こういうのが日常の中で実践する哲学なのかもしれませんねえ。)

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