空の旅(9)…『コスモグラフィア・ウニヴェルサリス』2017年04月26日 22時52分50秒

いつでも、どこでも、そこに人がいる限り、星との関わりが生まれ、星をめぐる物語が生まれ、そしてまた「物語をものがたるモノ」も生まれます。そんなモノを眺めながら、時代と国を越えて歩き続ける「空の旅」――。

何だか、ひどく大層なことにも聞こえます。
これが金満的な大規模展、例えば、今年の正月まで六本木の森美術館でやっていた、宇宙と芸術展とかなら分かるのですが、わびし気な天文古玩の管理人がチマチマとやれることなのかどうか…?

まあ、侘しかろうが何だろうが、多少の土地勘と想像力さえあれば、どんなに遠い旅だって、できないことはないぞ…と、幾分強がりまじりに思います。
それはちょうど、小口径の望遠鏡しか持たない人や、都会のひどく貧弱な星空の下で暮らす人でも、想像力でそれを補えば、いくらでも星の世界に分け入ることができるのと同じでしょう。

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…と、言い訳をしたところで、旅を続けます。
これまで古代オリエントから出発して、イスラム世界、インド亜大陸、モンゴルの大地をたどってきましたが、ここで踵(きびす)を返して、西洋の天文学に話題を戻します。

イスラム世界からバトンタッチを受けて、試行錯誤をしながらも、天文学を大きく前進させたのは、ルネサンス以降のヨーロッパの人々であることは間違いありません。そんな時代の記憶を伝える紙物2点。


 「いずれも、ゼバスチアン・ミュンスター(Sebastian Münster, 1488?-1552)『一般宇宙誌(Cosmographia Universalis)』から取った一頁(元は1552年のバーゼル版か)。古代のプトレマイオスや、アラブ世界の天文学者について記す章の挿絵ですが、おそらく同時代の天文学者や占星術師の姿を反映した絵柄。手にしているのは四分儀です。」


ラテン語の説明文はさっぱりながら、「In parallelo qui transit per 72. dies maior est trium…」で始まる頁冒頭からボンヤリ眺めていると、「sphaerae mundi」とか、「parallelus conplectitur 24 horas diei et noctis」とか、何となく天文学や地理学の話題を語っているのだろうなあ…と感じられるものがあります。


まだ望遠鏡登場以前のこの時代、天体観測を表わすイコンは四分儀でした。
…というわけで、次回は四分儀です。

(この項つづく)

空の旅(4)…オリエントの石板とアストロラーベ2017年04月16日 17時56分05秒

天文アンティークというと、何となく西洋の品に目が向きがちですが、天文学が生まれ育った土地は、いわゆる西洋の外側です。

昔々、天文学が発達したのは、四大文明発祥の地ですし、栄えあるギリシャ科学を受け継ぎ、発展させたのは、東方のヘレニズム文化と、その後のサラセン文化でした。

まあ、わが家にそんな歴史遺産があるわけはありませんが、それでもそうした事実をイメージさせる品を並べて、天文アンティークの枠を少し広げたい気がしました。

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(説明プレートはantique Salonさんに作っていただきました)

たとえば、以前も載せた紀元前の天文石板(正確には粘土板)と、はるか後代のアストロラーベ


残念ながらいずれも複製品ですが、本来の絶対時間でいうと、ここには2千年近くの時間差があります。

しかし――あるいはだからこそ――両者を並べて見る時、西アジアで星座が生まれた遠い昔のことや、精巧な儀器を生み出した工人の黒い指先、星の運行の秘密を解き明かした学者先生の長いあごひげ、そして彼の地の人々が星を見上げて過ごした幾十万もの夜の光景などが、いちどきに思い起こされて、何だか西域ロマンにむせかえるようです。

今、安易に「ロマン」という言葉を使いましたが、ナツメヤシの葉擦れ、乾いた透明な空に輝く満天の星、研ぎ上げた鎌のような新月…こうした状景は、暗い北ヨーロッパの人にとっては、実際ロマンに違いありません。

その心情を、欧州の人が心置きなく吐露できるようになったのは、ヨーロッパがイスラム世界を軍事的・文化的に圧倒した、近代以降のことですが、中世の十字軍などというのも、あれは一種の東方コンプレックスに基づく振舞いだったのでしょう。

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ここで、解説プレートの文字を転写しておきます。

石板の方は、「紀元前200年頃、古代オリエントのセレウコス朝期の天文暦の一部(複製)。有翼の蛇に乗る獅子と、その先に輝く木星が粘土板に刻まれています。獅子は今の「しし座」、蛇は「うみへび座」に当たると言われます。」

そして、アストロラーベの方は、「17世紀、アラビア海周縁のインド-ペルシャ世界で使われた両面アストロラーベ(複製)。表面と裏面が、それぞれ南北両天に対応しています。円盤の中心は天の北極・南極を、唐草模様の葉の尖端は主要な恒星の位置を示しています。アストロラーベは、天体の位置を簡単に知ることができる道具として、イスラム世界で特に発達し、中世後期以降はヨーロッパでも作られるようになりました。」

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石板の方は既出なので、以下、アストロラーベの細部を見ておきます。


アストロラーベのレプリカは、今もインドで大量に作られていて、その大半は土産物的な粗悪な品です。時代付けして、「アンティーク」と称して売っているものもありますが、そうなると完全なフェイク(偽物)です。

上の品は同じレプリカでも、ごく上手(じょうて)の部類に属するもので、かなり真に迫っています。最初からレプリカとして販売されていたので、フェイクではありませんが、黙って見せられたら、一寸危ないかもしれません。(そもそもアストロラーベのフェイクは、昔からさまざまあって、グリニッジのコレクションにもフェイクが混じっていることを、グリニッジ自身が認めています。)


このアストロラーベは、上記のように、両面使えるところが特徴で、後の南北両天用の星座早見盤の元祖のような品です。


安易な鋳造ではなく、彫りの技によって正確に線を刻んでいる点に、作り手の本気具合を感じます。



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どうでしょうか。ともあれ、ヨーロッパだけを見ていては、「空の旅」もロマンに欠けますし、旅の全行程のごく一部しかたどることはできません。

空を見上げながら、さらに遥かな旅を続けることにします。

(この項つづく)

時の鏡2016年02月01日 20時07分05秒

今日から2月。
2月といえば、今年はうるうです。

現在使われているグレゴリオ暦は便利なもので、うるう年が入るルールさえ心得ていれば、誰でも簡単にカレンダーが作れます。

すなわち、西暦年が4で割り切れる年(たとえば2016年)はうるう年ですが、例外として100で割り切れる年(つまり1800年とか1900年とか世紀末の年)は平年になり、さらに例外の例外として400で割り切れる年(直近は2000年)は、やっぱりうるう年になる…という、ちょっとややこしいものですが、慣れれば子供でも使いこなせます。

うるう年にしろ、平年にしろ、1月1日が何曜日か決まれば、あとは12月31日まで全ての曜日が自動的に決まるのですから、至極シンプルな仕組みです。(このシンプルな仕組みを考案するまでに、人類はずいぶん長い時を費やしました。)

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で、年次と月を合わせると、その月の暦(日付と曜日の組合せ)が読めるような道具を作った知恵者がいて、それがこういう円盤タイプの万年暦です。


ちょっと金満的な香りのする「銀の万年暦」。


銀器の老舗、パリのクリストフルが2010年に発売したもので、直径は約13cm。


仕組み自体はボール紙でも簡単に作れるので、別に銀だからどうということはないですが、この硬質の輝きは、2月の凍てついた空気に何となくふさわしい気がします。


日本では、昔から歴史書を鏡にたとえ、「大鏡」「水鏡」などの「鏡もの」が成立しました。この万年暦も、これからの時代の移ろいを、その表にくっきりと映してゆくことでしょう。

いとも豪華なる天文時計2016年01月24日 16時45分10秒

ブログを開設して10年と1日目。
初心に帰って、真の天文古玩とはこういうものだ!というのをボンと出して、おのれに活を入れることにします。

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あの伝統あるオークション会社のサザビーズも、時代の流れを受けて、最近はeBayに出品しているらしいのですが、そこで見たのがこんな品。


1575年頃、南ドイツで作られた卓上天文時計です。
むう、これは…!

驚きついでに、大きな写真も勝手に貼ってしまうと、こんな感じです。


サザビーズの評価額は2万ドル~4万ドル、スタートは1万6千ドルから。
落札額に加えて、さらに25%の手数料をサザビーズに払わないといけないので、相当豪儀な買い物ですが、後世の手がかなり入っていること、また現状では時計として機能せず、カチコチ動かすためには、大がかりな修繕が必要であることから、評価はこれでも低めに抑えられているのでしょう。


まあ、動かないにしてもすごいです。
それこそ皇帝ルドルフのヴンダーカンマーにあってもおかしくない風格があります。
出来ることなら、こういうものを脇に置き、豪奢な星図を眺めながら、憂鬱そうな表情で、人間の有限性に思いを馳せる…なんて乙に澄ましてみたいものです。

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果たしてこの品、いくらで落札されるのか。
オークションの終了は5日後です。

陽は西より出でて東に没する2016年01月21日 22時41分39秒

(昨日のつづき)

昨日のように考えると、ある日・ある時刻に、円環が地球上のどこに位置しているかは、あまり深い意味を持ちません。なぜなら、黄道が埋め込まれているのは、あくまでも天球であって、地球ではないからです。そして、地球と円環の位置関係は、地球の自転によってめまぐるしく変わるからです。

ただ、次のようにさらに想像を広げると、円環(黄道)と地球上の特定の地点は、不可分の関係性を帯びてきます。
それは、地球があるとき突然自転をするのをやめたら…と想像することです。

(画像再掲)

日本が夏至の日の真昼を迎えた頃、地球の自転がピタッと止まったとします。
こうなると、昼も夜もなく、太陽は24時間輝き続け、日本は灼熱地獄と化します。

季節が7月になり、8月になり、太陽は少しずつ高度を下げていきますが、依然空に浮かびっぱなしで、9月下旬のお彼岸を迎える頃、ようやく太陽は東の地平線に没します。(太陽が日周運動をせず、年周運動だけだったら、それは黄道上をじりじりと西から東と動いていきます。)

日没の後は、長い長い夜の始まりです。
太陽は半年かけて地球の裏側を舐めるように移動し、その間、日本は真っ暗な酷寒の季節を経験します。

そして3月の春分の日に、再び太陽は西の地平線から顔を出します。

地球の自転が失われ、公転だけが残れば、この円環は太陽が地球を直射するポイントを結んだもの(すなわち黄道の真下)を表わすことになり、この経路上を、1年かけて太陽が悠然と―いささか不遜とも思える態度で―移動していく様が、まざまざと思い浮かびます。

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まあ、こんなふうに夢想にふけったところで、得るものは少ないですが、こんな簡単な道具一つで雄大な気分を味わえるなら、実にリーズナブルなものです。

陽は大地をめぐり、天球をめぐる2016年01月20日 20時00分44秒

朝は白かった街が、帰りにはいつもの乾いた街になっていました。
ちょっと残念な気もしますが、坂道で転ぶ恐怖は免れました。

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さて、昨日のつづき。


上は、円環目盛りの最も短い(=北極に近い)位置を、日本付近に合わせた状態です。円環目盛りには月の名称が順番に書かれており、この状態だと、日本に一番近いのは6月です。


目盛りをぐるっと180度回すと、今度は一番長い(=北極から遠い)位置が、日本の真南に来て、月名は12月に替わります。

6月と12月というのは、いうまでもなく夏至と冬至の月です。
そのとき、円環目盛りの位置が地図上のどこに来ているかを見ると、それぞれ北回帰線と南回帰線の位置にあることが分かります。つまり、この円環目盛りは、太陽が真上から直射する地点(あるいは緯度)の経年変化を表しているのでした。

その場所と現在地の緯度差を考えれば、その時々の太陽の南中高度も、ただちに分かります。盤の裏面に書かれていた「様々な月における、地球の太陽に対する傾きを示す」云々という説明文は、そのことを意味しているのでしょう。

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…という理解で、一応はいいと思うのですが、ここで今少し想像力を働かせると、この道具のさらなる「妙味」が感じられるように思います。

たとえば、この世界地図と同大の透明な円板があって、地図に重なっていると想像してみます。そして、円板には星図が描かれており、天の北極を中心に、くるくる回るようになっているとします。

(青:天の北極、赤:天の赤道、黄:黄道)

ちょうど、この星座早見のような感じです(ただし、青い地紙の部分は透明になっています)。回転軸の位置にくるのは北極星で、小熊座の尻尾に当ります。そして、その周りを大熊座やカシオペヤ座が取り巻き、さらにその外側には、黄道十二星座を結ぶように、黄道が描き込まれている…と、想像してみます。

星座早見と見比べると分かりますが、世界地図上を回る円環目盛りは、実は天球上に固定された「黄道」と同じものです。したがって、この円環は、透明な星座を描き込んだ「仮想天球図」の一部と見なすことができます。

ひとたびそうと分かれば、クルクル回転すべきは円環でなしに、むしろ世界地図のほうだと分かるでしょう。不動の天球の下、毎日一回転する大地。そして太陽のほうは、この円環の上を1年かけてゆっくり一周するわけです。


太陽の位置を考慮すると、太陽のある側は当然昼間で、反対側は夜です。そして、地上から観測できる星は、夜側(=太陽と反対側)の星座だけであり、太陽の移動につれて、夜空にうかぶ星座も、一年かけてゆっくり交替していくことになります。

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こんなふうに、透明な星座を心眼で思い浮かべつつ、この道具を操作すれば、天体や地球の振る舞いが生き生きとイメージできますし、同時にこれは天動説的宇宙像ですから、昔々の人がどんなイメージで星空を仰いでいたかも分かります。

この辺が、この道具の「妙味」のように感じられます。

(この項、オマケとしてさらにもう1回続けます)

アストロラーベ風の何か2016年01月19日 20時04分53秒

全国で暴風雪の予報。
ストレートに雪の話題をとも思いましたが、寒夜の無聊を慰めるために、こんな品はどうでしょうか。


上は最近見つけた謎めいた道具。


北極を中心とする世界地図の上に、円環状の目盛りと、細長い指針状の目盛りが付いています。2つの目盛りは、いずれも北極を中心に地図上をグルグル回るようにできています。


全体の直径は約9cm、盤の厚みは1.5cmほどで、側面には革が貼られています。
いかにも時代がかった風情ですが、もちろん大航海時代のもの…というわけではありません。


ここまで拡大すると分かりますが、地図はオフセット印刷で、要はよくある「アンティーク風」のペーパーウェイト兼オブジェです。


裏面を見ると、「MADE IN ITALY」のシールが貼られており、全体の感じとしては、1960~70年代にイタリアで量産された土産物のようです(アンティーク風の地球儀や天球儀を、イタリアでは輸出用によく作っていました)。

土産物のわりに、モノの説明がきちんと書かれているのは比較的良心的で、文字に目をこらすと「アストロラーベは、当時(1520年)知られていた全ての土地を記載した北半球の地図上に応用された。それは1年のうちの様々な月における、地球の太陽に対する傾きを示すために使われた。」と読めます。

1520年と、ピンポイントで年代を指定しているところを見ると、これはどこかにオリジナルの品があって、そのレプリカなのかもしれません。ただ、上の文章は英語も少し変だし、意味が取りにくいです。

果たしてこの盤はどんな機能をはたすのか?
既にお分かりの方も多いでしょうが、冬の夜長に一寸のんびり考えてみます。

(この項つづく)

渾天儀・補遺2015年12月26日 08時34分46秒

先日、2回にわたって中国の渾天儀とその模型について記事を書きました。

■出でよ渾天儀(1)、(2)

昨日、そちらのコメント欄で、Haさんから、南京の紫金山に置かれた渾天儀について、香港科学館が発行した『中国古代天文文物精華(中文版)』(葉賜權・編著、2003)に、その各部名称が、くわしい図解入りで載っていることを教えていただきました

私が正式名称不明として、仮に「分点環」、「至点環」と呼んだリングは、同書では「二分圏」、「二至圏」となっている由。「圏」は「環」に通じるので、Haさんのご教示に従い、ここでは「二分環」、「二至環」とするのが適当と思われますので、記事の方にも割注を入れておきました。

Haさんは、該当ページの詳細をアップされているので、ぜひ併せてごらんください。


これによると、上の「二分環」「二至環」以外にも、先の記事中での呼称と、現代中国語によるそれとに異同を生じている例が多いので、参考までに比較対照しておきます。以下、青字が、香港科学館の資料中での呼称です。

▲第一の球核(六合儀
 ・地平環 → 地平圏
 ・天経環 → 天元子午圏
 ・天緯環 → 天常赤道圏

▲第二の球核(三辰儀
 ・赤道環 → 遊旋赤道圏
 ・黄道環 → 黄道圏
 ・分点環 → 二分圏
 ・至点環 → 二至圏

▲円盤(四遊儀
 ・黒双環 → 四遊圏
 ・直距 → 天軸
 ・玉衡 → 窺管

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また、この資料によって、四方から渾天儀を支える「飛龍柱」と共に、渾天儀の真下にあって、直下から球体を支えているデコラティブな柱の名称が「鼇雲柱(ゴウウンチュウ)」であることを知りました。 


「鼇(ゴウ)」とは大亀の意で、海中に住み、神仙の住む蓬莱山を支えているという伝説の動物です。件の柱をよく見たら、なるほど下の方に亀がいます。そして、柱の途中でにょろっと丸まっているのは、この亀が口から水を吹いている様を表現しているのでした。


西洋では大地の神・アトラスが、天球儀を支えていたりしますが、東洋では亀。
この亀―あるいは魚・蛙・蛇など、水の性を帯びた生物―が世界を支えているという観念は、どうやら汎アジア的なものらしいです。

と同時に、彼らは大いなる過去、すなわち世界が生まれる前の世界を象徴しており、天空と未来を象徴する鳥たちと対になっている…という趣旨のことが、伊藤清司氏の「亀蛇と宇宙構造(岩田慶治・杉浦康平(編)、『アジアの宇宙観』、講談社、1989所収)には説かれていました。

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にわか神仙と化し、宇宙をたなごころにした気分をちょっぴり味わえました。

出でよ渾天儀(2)2015年12月19日 12時37分17秒



全体のデザインからすると、南京の紫金山天文台に置かれている渾天儀のミニチュアのようです。素材はおそらくブロンズ(青銅)でしょう。


こちらが、南京にある本家本元のオリジナル。
これは、現存する中国最古の渾天儀であると同時に、なかなかドラマチックな過去を持っています。末尾の参考ページ 1)~3)の情報を総合すると、大略以下の如し。

この渾天儀が製作されたのは、明の正統年間(1436-1449)といいますから、約600年前のことです。

その後、王朝が清に替わった後も、長いこと北京の観象台に置かれていましたが、清朝末期になって、武装結社・義和団が蜂起した際(義和団事件、1900年)、乱を鎮定するという名目で、列強の8か国連合軍が北京に入城し、このときドイツ軍が、火事場ドロボウ的にこれをベルリンに持ち去ってしまいます。

ドイツが返還に応じたのは、ようやく1920年のことで、時すでに清も滅び、中華民国の時代です。そして1933年、中華民国の首都・南京の紫金山天文台に移設され、新中国成立後もそこにある…というわけです(北京の観象台に現在置かれているのはレプリカです)。


ミニチュアの方は、木製の台座が23cm四方、本体(球体部分)の直径が約12cmのかわいいサイズですが、こうして陰影を濃くすると、その存在感はなかなかのものです。
それに、あんまり大きな渾天儀が部屋にドーンとあると、迫力がありすぎて困るので、これはこれで良いのです。

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こうして見ると目がチカチカして、何が何やらわけが分かりませんが、この渾天儀は、ざっと重の構造になっています(詳細は、参考ページ4)を参照)。


最外層は3個のリングから成る球殻です。

四方から竜が支える「地平環」(地平線を表わします)、それと直交して南北を貫く「天経環」(子午線に相当します)、さらに天の赤道にそって東西を貫く「天緯環」がそれです。これらは全て台座に固定されており、不動です。


その内側にあるのは、4個のリングから成る球殻です。

まず「赤道環」(上記の天緯管と平行して存在します)、それに斜交する「黄道環」、さらに赤道環に直交する2個の環の計4つです。(後2者の正式名称は不明ですが、黄道と赤道の交点、すなわち春分・秋分の2点を通る環を「分点環」、それと90度ずれて夏至・冬至の2点を通る環を「至点環」と、ここでは仮称します。)

【2015.12.26付記】

コメント欄でのご教示により、仮称「分点環」「至点環」は、「二分環」「二至環」がより適当と思いますので、そのように修正します。
なお、追加記事(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/12/26/)」もご参照ください。

これら4個のリングから成る球殻は、第1の球殻内部にあって、天の南北軸を中心に、くるくる回転します。(なお、ここにさらに白道環を加えた渾天儀もあるようですが、ここでは省略されています)。


さらにその内側には、3つの要素から成る一種の「円盤」が存在し、第2の球殻内部で、これも天の南北軸を中心に回転します。

円盤の円周部に当るのが、天の赤道と直交する「黒双環」(赤経線に相当します)、そして天の南北両極を結び、円盤の回転軸に相当する「直距」、さらに直距と中心を同じくし、黒双環に沿って自由に回転する「玉衡」です。

最後の「玉衡」は、このミニチュアでは1本の棒ですが、実物は中空の筒で、これで星を覗き見るようになっています。中国の渾天儀は、単なるデモンストレーション用ではなく、実用的な観測機器であり、目視観測のための玉衡と、その位置を読み取るための複数の座標環から出来ていた…というのが、その基本的な姿です。


このミニチュア、可動部はオリジナルとまったく同様の動きをしますし、環の目盛りも律儀に刻んであるので、単なる土産物にしては、なかなか精巧な作のように見受けられます。


そして実に竜々(たつたつ)しい。
この竜々しさのせいか、この品に入札した人は私以外にいませんでしたが、個人的には、今年最大の収穫と評価しています。

まあ、これが部屋の風趣に調和するかは一寸微妙ですが、そもそもこれが調和する部屋ってどんな部屋なのか、あまり想像がつきません。


<参考ページ>
1)天漢日乗

出でよ渾天儀(1)2015年12月18日 06時50分46秒


(南京紫金山天文台、2006年)

我ながら義理堅い―と思ったことがあります。
いや、義理堅いというよりも、執念深い。

何を言っているのかというと、5年近く前、コメント欄で私は一つの宿題をもらいました。それは、西洋のアーミラリー・スフィアとは一味ちがった、中国風の渾天儀(こんてんぎ)の土産物はないだろうか?それも架台にドラゴンが絡み付いた、迫力満点のやつは?…というものでした(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/05/13/5861129)。

私はそういうものを確かに見た気がするので、必ずやあるであろう…と、そのときは思い、かつそのようにお答えしました。でも、これが思ったより難物で、その実物を見ぬまま、空しく四年半の時が経過したのでした。

されど、「思う念力岩をも通す」と言います。
今年になって、ついにその実物に出会うことができました。
これを竜神の加護と言わずして、何と言いましょう。

…と、最初から大層勿体ぶっていますが、これは勿体ぶるだけの価値があるので、実物の登場は次回に。

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ときに、今日もそうですし、前々回の「水色番号」の件もそうなんですが、この頃やたらと古い記事に言及していて、元々「郷愁」をキーワードにしたブログではあるものの、自らの過去記事に郷愁を感じるようでは、かなり末期的な感じです。

老人は思い出に生きると言います。
「天文古玩」も10周年を前に、すっかり老境に入った観があります。

でも、だからといって他にどうすることも出来ないので、力尽きてコトリと逝くまで、この先も後ろ向きの、もといノスタルジアに満ちた記事を書き続けることでしょう。
願わくば、そこにリリシズムが相伴いますように。

(勿体ぶった繰り言として、この項つづく)