彗星は空を飛び、ネットの海を超える2017年09月16日 11時35分28秒



1910年頃の彗星ブランドの煙草パッケージ。
これもハレー彗星を当て込んで売り出されたもののようです。


夜空を翔ぶ彗星と煙草―。
パッケージを見た瞬間、そこにタルホチックなものを感じました。

ただし、これはシガレット(紙巻き煙草)ではありません。
「plug cut」というのは、パイプに詰めて吸う刻み煙草のことです。


メーカーは米国ニュージャージー州のロリラード社で、調べてみると、ここは1760年創業のおそろしく古い会社で、その後も企業買収や合併を繰り返しながら、つい先年まで存続していた由。

下の注意書きには、「当社の製品は、法的許可を得て包装したものであり、このパッケージを再利用して、再び煙草を詰めることは、固く禁じられている」…といった趣旨が書かれています。現在もそうですが、当時も煙草の流通には、当局が厳しく目を光らせていました(その主たる動機は、健康面への配慮というよりも、徴税の関係でしょう)。


煙草を包んだ銀紙の風情や、貼られた証紙の表情が、また良い感じです。
驚くべきことに、このパッケージには100年前の煙草がそのまま入っていて、鼻を近づけると、今も煙草の薫りが強烈に漂ってきます。

   ★

昨日のシュナイダー氏のサイトに出会ったのは、この彗星煙草がきっかけでした。

いろいろ検索しているうちに、氏のサイトの3ページ目に、缶入りの同じ煙草を見つけ、さらにそれ以外のコレクションも見て回りながら、「こりゃすごいページに行き会ったぞ!」と興奮しつつ、最初のページに戻ったら、その管理人こそあのシュナイダー氏だったのです。

まあ、狭い世界なので、いつかは出会う運命だったのかもしれません。
しかし、タルホ氏によれば、彗星は不思議な偶然を地上にもたらすそうで、その影響も十分考慮されねばなりません。

迫りくる大怪星2017年09月17日 07時58分01秒

これもシュナイダー氏の蒐集と重なりますが、1910年のハレー彗星騒動の絵葉書を探していたら、こんな1枚が目に留まりました。


巨大な彗星を前に、地上は大混乱。


大火球のような彗星を目にして、逃げ出す者、銃で応戦する者、絶望的な表情で抱き合う者。街中が阿鼻叫喚の渦です。
(しかし中には、気球で後を追ったり、冷静にカメラを構える者も…)


慌てた旦那さんは、たらいに隠れて顔面蒼白。
奥さんや娘さんも、てんでに戸棚や樽に飛び込もうとしています。


寝所の夫婦は、何とか傘で災厄をしのごうという算段。


Weltuntergang ―― 「最後の審判の日」。
今まさに、恐るべき災厄が地球に迫っていました…

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というふうに一瞬思ったものの、ちょっと日付が合いません。
上のキャプションは「地球に向かう彗星。1899年11月14日」となっています。
あのハレー彗星騒動よりも10年以上前です。

日付けを見て、「ははーん」と思った方も多いでしょうが、これはハレー彗星ではなくて、もう一つの天体ショー、「しし座流星群」の場面を描いたものでした。

「しし群」は、ほぼ33年周期で出現し、76年周期のハレー彗星よりも、人々の生きた記憶に残りやすい出来事です (たいていの人は、生涯に2回ないし3回、それを目撃する機会を与えられています)。この1899年は、1833年の歴史的大流星雨のあと、1866年にも相当の流星群が見られたのを受けて訪れた、天文ファンにとっては、絶好の観測機会。

ただ、それを絵葉書作者が「彗星 Komet」と呼んだのは、市井の人々の意識において、流星と彗星が、いずれも空を飛ぶ星として常に混同されがちだった…という事実を裏付けるものとして、興味深いです。

   ★

しかし、それにしても当夜のウィーン(版元はウィーンの会社です)は、実際こんな有り様だったのか?その答は、葉書の裏面にありました。


葉書の投函日は1899年11月11日。
そう、すべては実際に流星群が出現する前に想像で画かれた絵だったのです。
流星とは似ても似つかない怪星も、実景を見たことのない者が描いたからに他なりません。

それでも、11月14日という日付けを正確に予言できたのは、天文学者がそれを計算したからです。そして、学者たちは流星群の当日も、それが「天体ショー」以上のものではないことを、冷静に告げていたはずです。(既に1866年には、「しし群」の起源が、テンペル・タットル彗星であることも判明しており、絵葉書の「彗星」の呼称は、それに影響された可能性もあります。)

したがって、この絵葉書は、世紀の天体ショーを前にして、版元がジャーナリスティックな煽りを利かせて作ったものであり、きっと作り手も買い手も、それを大いに面白がっていたんじゃないでしょうか。

   ★

1910年のハレー彗星のときも、人々の狼狽ぶりを面白おかしく描いた絵葉書が大量に作られましたが、そちらについても、かなり割り引いて解釈する必要があると思います。(本当に恐怖のどん底にあったら、絵葉書を作ったり、買ったりする余裕はないはずです。)

なお、1899年は「しし群」の外れ年で、ウィーンっ子たちはさぞガッカリしたことでしょう(逆の意味で狼狽したかもしれません)。

   ★

台風の中、今日から小旅行に出るので、記事の方はしばらくお休みします。

甲府の抱影(前編)2017年09月20日 13時21分53秒

この連休に、老いた両親を見舞ってきました。
その帰り途、いつもとコースを変えて、ちょっと甲府に足を延ばしました。

(昇仙峡から望む甲府盆地と富士)

昇仙峡見物や、信玄の館跡である武田神社詣でなど、普通の観光もしつつ、初めて訪れる甲府で楽しみにしていたのが、一時甲府で暮らした、野尻抱影(1885-1977)の面影を偲ぶことでした。

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抱影の甲府生活は、明治40年(1907)5月に始まりました。
前年に早稲田の英文科を卒業した青年英語教師として、旧制甲府中学校(現・甲府第一高校)に赴任するためです。その甲府生活は、明治45年(1912)に、東京の麻布中学校へ転任するまで、満5年間続きました。

(甲府中時代の抱影。石田五郎(著) 『野尻抱影 ― 聞書“星の文人”伝』 より)

前回の記事でも触れた、1899年のしし座流星群は、日本の新聞でも盛んに取り上げられ、それに触発されて、抱影少年は初めて天文趣味に目覚めた…ということが、石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート、1989)には書かれています。

その天文趣味は、この山国の満天の星の下、さらに進歩を遂げ、都会育ちの彼が山岳や自然一切の魅力に開眼したのも、この甲府での生活があったればこそです。甲府暮しがなければ、おそらく後の抱影はなかったでしょう。

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抱影が赴任した甲府中学校は、今の山梨県庁のところにありました。

(甲府駅周辺地図)

上の地図だと、甲府駅のすぐ南が甲府城(舞鶴城)跡で、その西側に山梨県庁があります。今は甲府城の城地が大幅に狭まっていますが、旧幕時代は県庁一帯もお城の内で、二の丸の一部を構成していました。

(城の南側から甲府駅方面を見たところ。道路を挟んで左が山梨県庁、右が舞鶴城公園)

明治13年(1880)創設の甲府中学校が、この場所に新築・移転したのは、明治33年(1900)です。その後、昭和3年(1928)に、現在の甲府一高の地に移転し、その跡地に県庁が引っ越してきました。

上の地図で、「山梨・近代人物館」と表示された建物が、昭和5年(1930)に竣工した県庁旧庁舎です。さらに、その北隣の建物が、旧庁舎と同時にできた県会議事堂で、このあたりが甲府中学校の跡地になります。

(山梨県庁旧庁舎(現・県庁別館))

抱影は、学校近くの下宿屋から、当時はまだあった内堀(今は埋め立てられて県庁西側の大通りになっています)にかかった太鼓橋を渡って、毎日学校に通いました。

(大正~昭和初期の甲府城跡。奥に見えるのが中学の校門。甲府市のサイト掲載の白黒写真を、試みにAIで着色してみました。)

(記事が長くなるので、ここで記事を割ります。以下次回につづく)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

しばらく政治向きのことは静観していましたが、ここにきて、「大義なき解散」の話が持ち上がり、これについては大義どころか小義もないし、安倍晋三という人は、つくづく姑息な人だなあ…と改めて歎息しています。

で、歎息ついでに、ふと「姑息」というのは、なんで「しゅうとめの息」なんだろうと思いました。「姑の息」は、そんなに邪悪なものなんでしょうか?

調べてみると、「姑息」とは「一時しのぎ」の意味で、これを「卑怯」の意味に使うのは誤用である…と多くの人が指摘しています。これは、「(歌の)さわり」とか、「情けは人の為ならず」と同様、今や誤用の方が主流に転じた例でしょう。

何でも「姑」という字には、「しゅうとめ」の意味の他に、もともと「一時的」の意味があって(たぶん同音他字の意味を借りたのでしょう)、そこから「姑息」イコール「一時的に息(やす)むこと」、すなわち「一時しのぎ」の意味になったんだそうです。

でも、この「姑息」という字句は、一時的どころか、ずいぶん長い歴史のある言葉です。出典は四書五経のひとつ『礼記』で、孔子の弟子に当る曽子が、臨終の間際、曽子の身を気遣う息子を叱って、「お前の言い分は君子のそれではない」と言ったことに由来する(「君子の人を愛するや徳を以てす。細人の人を愛するや姑息を以てす。」 君子たる者は大義を損なわないように人を愛するが,度量の狭い者はその場をしのぐだけのやり方で人を愛するのだ。)…ということが、文化庁のサイトで解説されていました。

こうして、日本では「一時しのぎは卑怯なり」と受け止められて、「姑息」の意味が変容しましたが、一方現代中国語にも「姑息」という語は生きており、そちらはもっぱら「甘い態度をとること、無原則に許すこと」の意味に使われるそうです。文化の違いというのは、なかなか面白いものです。(ちなみに今の中国語だと、「姑」は主に「夫の姉妹」、すなわち「こじゅうと」の意味で使われることも、さっき辞書で知りました。)

   ★

さて、話が一周して、安倍晋三という人がやることは、一時しのぎだし、卑怯だし、身内に大甘で、あらゆる意味において「姑息」だなあ…と改めて思います。かの宰相は、まこと君子に遠き細人なるかな。

甲府の抱影(後編)2017年09月21日 05時48分22秒

(昨日のつづき)

抱影が、甲府中学校の理科室に備えられた2インチ径の望遠鏡を使って、夜ごと星を眺めていたことは、彼の随筆『星三百六十五夜』から、以前一文を引いたことがあります(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/16/)。

同旨の文章になりますが、ここでは抱影が別のところに書いた一文を、石田五郎氏の上掲書から孫引きしてみます。(原典は甲府中校友会誌第35号。原題は「星を見るまで」。引用中、「……」は石田氏による挿入。改行は管理人による。)

   ★

 白根の頂に雲の浮ばなかった日は風のない静かな昼が静かな夜と暮れる。こういう夜僕はよく中学校へ望遠鏡で星を覗きに行ったものだ。県庁横のあの灯火の少い通りを歩きながら瑞々しくかがやいている星の中をあれかこれかと予め選んでゆくその心持は察してくれる人が少い。

……理科の機械室の戸口に立止って、錠にガチリと音をさせて戸を開けるとその途端に一種の冷い匂いが顔を打った。提灯のそぼめく光にまわりの硝子戸棚の滑かな面とその中にある多くは黄銅製の種々の器械とがぼんやりと光って、硝子戸は足音でぴりりとかすかな音を立てた。窓ぎわにほの白いカーテンの前には望遠鏡が長い三脚をふんばって突立っている。白いさらしの布で巻かれている黄銅の筒はいくど僕の手でなでられた事だろう。

……望遠鏡を抱え上げると、何かに追われるようにその部屋を出、いそいで後ろに戸をたてて提灯を吹き消し、そして太い三脚をちぢめて肩に担いだ。黄銅の筒はぐたりと縦に背にもたれかかって、町の辻に立ってチャルメラを吹く飴売りの首をぐたりと垂れたひょろ長い人形を思わせた。

……昼はテニスコートに使われる真暗な庭へ出て、柔い土へ三脚を拡げて立てた。円筒のくびをするすると伸し、その口をひき出し、口許のレンズの小さい鋼鉄の蓋を爪先で探って開けた。これまでの一切の処置が何のこだわりもなく躊躇なく進行する事にいつも満足を感じた。背を屈めて望遠鏡の口を覗くと両手の親指と人差指とで作った程の円い平たいレンズの面が筒の内部の暗黒とやや見分けのつく位の仄明るさに夜の空を映していた。そこで何時も度を合す標準に使う北斗の第二星(二重星)へ筒口をぐーっと向けて覗くとそれがぽっと大きく拡がつて見えた。右手でネジを小心に回しはじめると、筒の胴はそれに連れて伸びたり縮んだりした。その中に当の星は形を小さくまとめて強い堅い光を放った。そのすぐ側に、真黒な空間を隔てて、それに付属の星が永劫近付き難い淋しさをあきらめている様に幽かに光っていた。

   ★

ちっぽけな望遠鏡とはいえ、明治の末、まだ日本では趣味の天体観測がほとんど行われていない時期のことですから、その経験はすこぶる貴重です。

抱影がそれを存分に楽しんだのは、一種の「役得」に他なりませんが、同じ教師仲間でそのアドバンテージを生かしたのは、ひとり抱影のみですから、これは抱影の才覚と内証の良さを褒めるべきでしょう。

ともあれ、「星の文学者」としての抱影の下地が、紙の上の知識のみならず、リアルな観測経験によっても練られたことは、その後、抱影に導かれた日本の天文趣味にとって、大いに幸いなことだったと思います。

   ★

さて、その抱影が見た星空を、この目で見ようというのが、今回の旅の大きな楽しみのひとつで、幸い天候にも恵まれましたが、結論から言うと、星そのものは見られず、夕暮れの甲府城(舞鶴城)を散策するだけで終わりました。

以下は舞鶴城公園からの景観です。


陰々たる古城の黄昏。
甲府中学校の寄宿舎裏には、昔、小姓か腰元を切りこんで埋めたという石の六角井戸があり、抱影は生徒たちを集めて、肝試しをやったそうです。


盆地に位置する甲府は、当然ながら東西南北すべて山。
秋分間近のこの日、太陽は真西にあたる千頭星山(せんとうぼしやま)へと沈み、町は急速に暮色を深めます。(ちなみに、中央の巨大なオベリスクは、明治天皇を奉賛する城内の謝恩碑。抱影時代の甲府にはまだありませんでした。)


対する東に目を向ければ、連山の頂にうかぶ白雲が、美しい茜色に染まっています(右端は富士山)。きっと100年前も、あの雲の遠い祖先が、あそこであんなふうに浮かんでいたことでしょう。それが灰白になり、暗い闇に溶け込むとき、抱影はお城の脇を速足で歩きながら、これから始まる天体ショーに、胸を高鳴らせたのです。


北の空を見上げたところ。
抱影の天体観測は、北極星とおおぐま座からスタートするのが常でした。
地平から35.7度の位置に北極星が光り、その周囲に大熊が姿を見せるのも、もうじきです。

   ★

さんざん煽っておきながら、いったいキミは夜は何をしていたのかね?

…と思われるかもしれませんが、夜は夜で甲州ワインを飲んだり、地鶏を食べたりで忙しかったのです。まあ、連れもいたので、全てが自分の自由にはならなかったというのもありますが、山梨の魅力はそれだけ多彩である、ということです。

甲府余談…胡蝶の教え2017年09月22日 07時11分53秒

年々歳々花は相似たり
歳々年々人同じからず

人間社会の移ろい易さと、自然の不変性――。
この詩句は古来多くの人の共感を誘ったことでしょう。
私も齢を重ねるにつれて、そうした思いに頻々と捉われるようになりました。

   ★

先日、甲府の武田神社で一服していたら、すぐ近くの地面に一匹の蝶が舞い降りて、吸水行動を始めました。それを見て「ん?」と、軽い違和感を覚えました。


「アゲハ?…じゃないよね…あれはいったい?」
不審の念に駆られて、パシャッとやったのが上の写真。

帰宅後にネットを見たら、その正体はすぐに知れました。
すなわち、アカボシゴマダラ

日本には、もともと奄美周辺のみにいたのですが、2000年前後に大陸産の別亜種が流入し(人為的放蝶が原因と推定されています)、現在、関東を中心に分布を拡大中の由。

私の昆虫知識はほぼ40年前で止まっていますから、その姿に違和感を覚えたのは当然で、むしろ「お前さん、まだまだオツムはしっかりしてるじゃないか」と、妙な自信を感じたぐらいです。

   ★

身近な日本の自然も、私が子供の頃に親しんだそれとは、既に異なるものとなっていることを、一匹の蝶に教えられました。そして、人為と自然は切り離せないし、自然は不変でもないことを痛感させられます。

さらに、こんなふうに「見慣れぬものの出現」は気づきやすいですが、本当は「見慣れたものがいつの間にか消えている」ことの方が、ずっと多いんだろうなあ…ということも思いました。ヒトの認識は、容易にそれに気づかないようにできているようです。

   ★

歳々年々人同じからず
年々歳々花もまた同じからず

ちょっと寂しい気もするし、少なからず不安も覚えますが、それが真実ならば受け止めるしかありません。それに、仮にヒトがいなくたって、自然の変化はやむことがないし、生物たちはそれぞれ進化の歩みを続けることでしょう。

ハレー彗星の思い出とともに2017年09月23日 12時32分37秒



1910年から時を経て、再び1986年にハレー彗星がやってきたときも、いろいろ絵葉書が作られました。上の絵葉書もそんな1枚。


91歳のバーベナ・ウィグルスワースの思い出。
「ありゃ1910年、ハネムーンの晩のことだよ。新郎のウィルバーとあたしは灯りを消して、コトに取り掛かったのさ。すると急に空がネオンサインみたいに光り出して、風がうなりを上げてね。鶏が二羽、窓の外を飛んでくのが見えた。かと思うと、今度は地面が揺れ出したのさ。でも、そいつは始まったかと思うと、急に終わっちまった。今思えば、ありゃハレー彗星のせいだったんだね。おかしなもんさ、あたしゃずっとウィルバーのせいだと思ってたよ…」

思わずクスッとする話です。
でも、この話の可笑しみは一体どこから来るんでしょうね。
話にひねりを利かせた、そのひねった先にある、何か人生の真実みたいなものが伝わるからでしょうか。少なくとも、単なる艶笑ではないですね。

こういうのは若い頃と、齢が行ってからとでは、ちょっと受け止め方も変わるかもしれません。

   ★

この絵葉書は、カリフォルニアに住む或る文筆家夫婦が、友人夫婦の家で歓待を受けた礼状として(一方の奥さんがもう一方の奥さん宛てに)出したものであることが、裏面の文面から読み取れます。

双方の夫婦は当時50歳前後。やっぱり男女の機微について、感じるところがあったのでしょう。書き手の女性は、「この絵葉書、気に入った?」と書き添えています。

風を読む幻想の宮殿2017年09月24日 07時00分43秒

今日も絵葉書の話題です。

これはわりと最近――といっても半年前――の記事ですが、西 秋生氏の『ハイカラ神戸幻視行―紀行篇』を取り上げた際、神戸の怪建築「二楽荘」にまつわる、著者・西氏の不思議な思い出話をご紹介しました。

■神戸の夢(2)
 
(画像再掲)

それは一種の桃源探訪記でもあり、神隠し体験のようでもありましたが、その際に載せた二楽荘の画像を見て、私自身チリチリと灼けるようなデジャヴを味わっていました。

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その正体は、しばらくしてから思い出しました。
以前に見た、これまた不思議な建物の絵葉書がそれです。


パリのモンスーリ公園に立つ、イスラム風宮殿建築。
私は二楽荘のことを、「西洋趣味とオリエント趣味を混ぜ込んで建てた、奇怪な建築」と書きましたが、神戸とパリの二つの建物は、いずれも「ムーア様式」と呼ぶのが適当です。すなわち、中東とはまた一味違う、北アフリカで発展した独特のイスラム様式。

(同じ建物を裏から見たところ)

以前、盛んに天文台の絵葉書を集めていた頃、この建物は「Observatoire」の名称ゆえ、頻繁に網にかかりました。でも、気にはなったものの、さすがにこれは天文台ではないだろう…と思いました。

フランス語の「オブセルヴァトワール」(あるいは英語の「オブザベイトリー」)には、「天文台/観測所」の意味のほか、「物見台」や「展望台」の意味もあるので、左右の塔屋を指してそう呼ぶのだと、常識的に解釈したわけです。

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しかし、実はその常識の方が間違っていて、これは本当に観測施設だと知って驚きました。ただし、観測対象は天体ではなく気象、すなわち測候所です。

すぐ上の絵葉書の説明文にもチラッと書かれていますが、元々この建物は、1867年のパリ万博のパビリオンとして建てられたもので、チュニジアの首都チュニスを治めた太守の宮殿をお手本に、それを縮小再現したものです。

そして、万博終了後はモンスーリ公園の高台に移され、1876年以降、気象観測施設となり、また1893年からは、大気の衛生状態を監視する施設としても使われるようになりました。

しかし、建物の老朽化は避けがたく、1974年に観測施設としての運用が終了。
さらに1991年、ついに火事で焼け落ちて、この世から永遠に姿を消したのです。

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神戸の二楽荘が失われたのも、やはり失火が原因でした。
焼失は1932年ですから、消滅に関してはパリよりも先輩です。

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かくして彼らの姿は、今やこうして絵葉書の中にとどまるのみ―。
でも、彼らの戸口の前に再び立ち、さらにその中に足を踏み入れることだって、場合によっては出来ないことではない…西氏の経験はそう教えてくれます。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ここ数日の報道に接するにつけ、安倍さんにしろ、麻生さんにしろ、何とも異常な政治家であり、異常な政体だなあ…と再三驚いています。

まあ異常というより、「悪の凡庸さ」というフレーズを裏書きするぐらい凡庸な人間なのかもしれませんが、その突き抜けた凡庸さにおいて、やはり彼らは異常と呼ぶ他ないのではありますまいか。

凡庸も過ぎれば邪悪です。

気象趣味のこと(附・ガリレオ温度計の祖型)2017年09月25日 07時02分27秒

昔から言われる天文趣味の大きな特徴は、「星は遠くから眺めるしかできない」こと。

天体は、昆虫や鉱物と違って、直接手に取って愛でたり、収集したりすることができません。したがって、フェティッシュな喜びから遠い…という意味で、いささか抽象度の高い趣味なのかもしれません。

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しかし、星よりもはるかに身近でありながら、いっそう抽象度の高い趣味があります。
それが気象趣味です。

「え、気象趣味なんてあるの?」と、思われるかもしれませんが、趣味の延長で、気象予報士を目指す人が、毎年おおぜいいる事実を思い起こしてください。昔、19世紀のイギリスにも、自宅に気象観測機器を一式備え付けて、毎日律儀に記録を付ける紳士がたくさんいたと聞きます。

思えば、気温、湿度、気圧、風速、風向…これら気象学の主な観測対象は、すべて目に見えません。もちろん、計器の示度は読めますが、そこで測られる当の相手は、まったくインビジブルな存在です。

確かに雨は目に見えるし、雲は飽かず眺めるに足る存在でしょうが、しかし、いかにも取り留めがないです。そこには星座のようにピシッと決まった形もなければ、その運行もまったくの風任せです。

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そうした取り留めのない対象の背後に、一定のパターンを見つけ出すことで、現象を説明し、予測する…そこに気象趣味の醍醐味はあるのでしょうが、やっぱり抽象度の高い趣味だと感じます。私が気象趣味に対して、何となく「高尚」な印象を勝手に抱くのも、その抽象度の高さゆえです。

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とはいえ、この本↓はさすがに「ビジュアル」を謳うだけあって、見るだけで楽しいです。


ブライアン・コスグローブ(著)
 『気象』(ビジュアル博物館 第28巻)
 同朋舎出版、1992


大気の立体的な運動の解説も分かりやすいし、


古風な観測機器の図が、天文古玩の情趣にも合います。


中でも、このガラス製温度計の美しさときたらどうでしょう。

 「初期のフィレンツェの気象学者は、ヨーロッパで最も技術の高いガラス細工師の助けを借りることができた。このガラス吹きつけ技術のおかげで、多くの計測器具を実現できた。ここに見られる精巧で美しい温度計は、ガリレオの少しあとの時代のものである。管に満たした水中を色のついたガラス玉が上下して温度を表示した。」 (本文解説より)

   ★

話が枝葉に入りますが、上の説明にはちょっと腑に落ちない点があったので、所蔵表示を頼りに、ガリレオ博物館(Museo Galileo)にある現物を見に行ってきました。


そこでは、「房状温度計(Cluster thermometer)」の名前で紹介されており、高さは18センチと、思ったよりも可愛いらしいサイズです。

管の中を満たしているのは、(上の本に書かれているように水ではなく)アルコールで、そこに密度の異なるガラス球が封入されており、温度の上昇につれて、密度の低いものから順に浮かび上がる仕組みだそうです。

要は、今あるガリレオ温度計そのものなんですが、ただし、紹介文中にガリレオの名前はなくて、代わりに発明者として、メディチ家のフェルディナンド2世(1610-1670)の名前がありました。まあ、実際に製作したのは、大公お抱えのガリレオの弟子たちあたりでしょうが、この科学マニアの好人物に、その栄誉が帰せられたのは、ちょっと微笑ましい感じがします。

フォルタン気圧計2017年09月26日 06時58分39秒

地球大気の振舞いに親しもうと思えば、戸外に一歩出て、大空を見上げさえすれば良いのです。そこには風が吹き、雲が湧き、水滴が走り、虹がかかり…。器具を補助手段として、五感を働かせれば、この惑星が生きていることを、存分に実感できます。

それなのに、わざわざ部屋にこもって、古書や古道具を眺めて満足げに目を細めるなんて、まことに不健康な話です。そして、気象趣味の本道から、これほど遠い振る舞いもないでしょう。

…でも、野に咲く花よりも、花の絵に魅かれる人がいるように、そういう偏った嗜好の持ち主も一方にはいます。いや、むしろ気象趣味の一端には、歴史性に裏打ちされた雅味が確かにあって、それはそれで味わうに足ることなんだ…と、ここでは敢えて主張したいと思います。「天文界に天文古玩趣味あれば、気象界にも気象古玩趣味あり」というわけです。

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そんな言い訳をしつつ、部屋の隅に置かれた大きな気圧計を登場させます。


フランスの科学機器製作者、ジャン・二コラ・フォルタン(Jean Nicolas Fortin 、1750–1831)が、1800年頃に考案した「フォルタン気圧計(Fortin Barometer)」。これぞ、17世紀に大気圧の存在を示したトリチェリに始まる、水銀式気圧計の19世紀における直系の子孫です。


手元の品は、英ニューカッスルの科学機器メーカー「Brady and Martin社」が、19世紀末頃に販売したもの。安定した測定を行うために、気圧計全体がオーク製のガラスケースに収められているのも魅力的ですし、ケースの高さは110cmと、部屋の中で相当な存在感を発揮しています。

(気圧計下端の水銀槽)

しかし、そのサイズゆえに、これを故国イギリスから送ってもらうには、かなりの苦労を伴いました。荷造りと送料の交渉も面倒でしたが、最大の障壁は、装置の内部を満たす水銀の扱いでした。

それまで私はあまり意識していなかったのですが、水銀は今や有害物質として、輸出入が厳しく制限されており、税関を通すためには、イギリス側でいったん水銀を抜いて、日本に輸入後、再注入しないといけない…という話が出て、先方と何度もメールでやりとりを重ねました(さっき数えたら、メールは全部で22通に及んでいました)。

結論からいうと、今手元にある気圧計は、水銀が抜かれたままの状態です。気圧を測るためには水銀の再注入を依頼しなければなりませんが、最初から実用を目的としていないので、その必要は当面ないでしょう。


気圧計とその上の風速計。
そよとも風の吹かないこの部屋で、気象趣味のかすかな余香が、微気象に乗ってゆっくり漂っています。(やっぱり偏った趣味かもしれません。)

フォルタン気圧計(補遺)2017年09月27日 06時51分37秒

昨日の気圧計が我が家に来てから、もう5年になります。
このちょっとした出来事にも、それに先立つエピソードがあります。

   ★

2012年初夏。私は案内してくれる人を得て、滋賀県の豊郷(とよさと)町にある、豊郷小学校旧校舎の見学に出かけました。ここは建築家ヴォーリズの手になる名建築として知られます。

そのときご案内いただいたY氏の尽力によって、旧校舎の理科室は、その後見事に整備されましたが、当時はまだ整備前で、相当雑然とした状況でした。それが私の心をいっそう捉えたのですが、しかし「整備にかかる前に、あまり舞台裏を出すのはちょっと…」という関係者の声に配慮し、その際の探訪記はいったんブログで公開した後、じきお蔵入りとなったのです。

その訪問の際に、私の目にパッと飛び込んできたのが、このフォルタン気圧計でした。


理科準備室の隅に横たわる、いかにも古色蒼然とした器械(写真は5年前)。


ラベルに書かれた「フオルチン水銀気圧計」の筆文字も、相当インパクトがありました。

訪問を終えた私は、戦前の理科室にタイムスリップしたかような眼前の光景に、興奮の極にありましたから、古い気圧計に食指が動いたのも、単なる気象趣味にとどまらず、そうした「理科室趣味」に発する追い風も大いに作用していたのです。
イギリスから例の気圧計が届いたのは、豊郷小訪問の翌月だ…といえば、その風力がいかに大きかったか、ご想像いただけるでしょう。

   ★

そんなわけで、この気圧計を見ると、いろいろな思いがむくむくと湧いてきます。
モノに念がこもるというのは、何も怪談の世界だけのことではありません。


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