スパークは大地を照らし2014年12月04日 21時17分31秒

(昨日のつづき)


昨日の絵葉書の特徴とは何か。
女の子の服装からパッと分かった方もいらっしゃるでしょうが、これは内地の光景ではありません。

絵葉書の裏面を見てみます。



一目見るなり、「ああ満州か…」とつくづく思いました。

満州、幻の帝国。
欲望と憧れが渦巻いた巨大な実験場。


「次代の満州を背負って立つ満系の子供達は、いまたくましい知識欲に眼を輝かし万里の沃野に体を鍛へ、そして建国精神を修め学業にいそしみつゝある。国民学校とは日本の小学校に当る。」

満州の建国宣言は1932年で、日本の小学校が「国民学校」と改称されたのは1941年(昭和16)ですから、この絵葉書はその間のものということになります。

(首都新京にそびえた帝冠様式のビル・三菱康徳会館。
1935年の新築の際に配られた記念品。)

   ★

満州国の存在自体は、日本の国策が生んだ奇態な徒花という他ありません。
また、理科教育がその社会的文脈から完全に自由でいることもできないでしょう。
しかし、物理法則はそれを超えて存在し、条件さえ整えば、静電火花はいついかなる所でもはげしく散り、それを押しとどめることはできません。
「そこにこそ世の真理がある」…と気づいた少年少女は幸いなりと言うべきでしょう。

コメント

_ S.U ― 2014年12月05日 08時33分06秒

満州国だったんですかぁ。「国民学校」とあるので、日本の昭和16年以降かと疑いませんでした。日本の国民学校は公立学校において「皇国精神」を明瞭化するために改組されたものですが、満州国ではどういう名目であったのでしょうか。

>条件さえ整えば、静電火花はいついかなる所でもはげしく散り
 まさにそうですね。私の好きな三浦梅園のことばを思い出しました。天地の真理そして人倫の道は自然に問うべしというのが中国でも日本でも東洋哲学の神髄ではないでしょうか。
 
 我炉中の火、即、万里の外の火にして、我盆中の水、即、千古の前の水なれば、この天地をしり、此水火をしらんとならば、先此無盬に試みて、傍書籍に参考し、あはざる処を置き、あふ処をしるべし。 (三浦梅園『多賀墨郷君にこたふる書』)

_ 玉青 ― 2014年12月05日 19時26分48秒

日本の国民学校の成立も、満州における実験の「成果」だったんでしょうかねえ。

それにしても、梅園の言葉、実に熱いですね。
目の前の事物を知れば、万里千古に通ず。
これぞ近代科学の前提そのものであり、言わば梅園流の「宇宙原理」の表現かもしれませんね。思うに、彼が終世故郷の小天地で泰然としていられたのも、こうした観念の故ではないでしょうか。

_ S.U ― 2014年12月05日 21時53分34秒

>日本の国民学校の成立も、満州における実験の「成果」
 満州はよい実験地にされたのですね。現代でも「何たら特区」とか言って地方を使って実験をしようとしているようです。好き勝手にいじくりまわして地元民に迷惑だけかけてあとは知らん顔ということはないようにしていただきたいです。

>梅園の言葉、実に熱い
梅園は熱いですね・・・ 近代科学精神は、ガリレオやニュートンの分厚いのよりも、この『多賀墨郷』の文庫本数ページだけを読むのが早いかもしれません。 
 すみません。私の引用の最後の部分がミスによる誤植でした。正しくは「とるべし。」です。前後を付け足して訂正し再掲します。

 天地はむかし新しき天地にもあらず、今ふるき天地にもあらず。いつも変わらぬ無盬にして、我炉中の火、即、万里の外の火にして、我盆中の水、即、千古の前の水なれば、この天地をしり、此水火をしらんとならば、先此無盬に試みて、傍書籍に参考し、あはざる処を置き、あふ処をとるべし。
 此故に、天地達観の位には、聖人と称し仏陀と号するも、もとより人なれば、畢竟我講求討論の友にして、師とするものは天地なり。

 少し前の次の部分もいいです。これはなかなか言えないことではないでしょうか。
 
 しかれば石、物いふといふとも、夫より己が物いふを怪しむべし。枯木に花咲たりといふとも、先生木に花さく故をたづぬべし。
 かく物に不審の念をさしはさまば、月日のゆきかへり、造化の推遷るは更にして、己が有と占め置ける目のみえ耳のきこゆるも、態をなす手足も、物をおもふ心もひとつとして合点のゆきたる事はあるまじく候。(三浦梅園『多賀墨郷君にこたふる書』)

_ 玉青 ― 2014年12月06日 11時29分53秒

梅園先生の面目躍如たる一文ですね。

火を見て万里の外を思い、水を眺めて千古の昔を知る。
人が語り、木に花が開く、その眼前の日常そのものが不思議に満ちており、考究に値するのだ!

そういえば、前にも書いた気がしますが、妖怪博士・井上円了は、その研究の帰結として「狼狐幽霊怪物にあらず清風明月これ真怪」の一句を好んで人に示したそうです。日々目にする自然現象こそが、不可思議に満ちた「真の怪」であり、世間でいう「お化け」なんぞ全く取るに足りないという、妖怪博士らしからぬ結論ですが、でも突き詰めればそういうことになるのでしょう。まこと世に不思議ならざるはなし、ですね。

_ S.U ― 2014年12月06日 18時07分16秒

井上円了も三浦梅園も言っていることは間違いなく近代科学の心ですが、それは西洋の学者の受け売りではなく、東洋の伝統の哲学をベースにして彼らの独自の研究で切り開いていった境地なのでしょう。科学的思考については、日本人は自身のシンプルな自然の見方の伝統にもっと自信を持ってよいと思います。現状は、いろんな立場の考え方にちょっと振り回されすぎのようです。

_ 玉青 ― 2014年12月07日 09時13分36秒

S.U大人の言葉もまた熱いですね。
我小輩の身ながら心中大いに期するものあり、世人また之を掬せよ。

_ S.U ― 2014年12月07日 16時05分08秒

いやぁ、恐れ入ります。
我が国の科学精神高揚に少しつっぱってしまいました。
 ノーベル賞授賞式もありますので、選挙前ですが一息入れて下さい。

_ 玉青 ― 2014年12月07日 19時52分20秒

ありがとうございます。
それではちょっと一服して…

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