高山植物のロマンス ― 2015年07月24日 19時48分58秒
世間はもう夏休みですね。
そういえば、昨年の夏、涼を求めて高山植物の古い図鑑を何冊か買いました。
図鑑は図鑑でまた眺めるとして、そのときこんな温泉土産を見つけました。
そういえば、昨年の夏、涼を求めて高山植物の古い図鑑を何冊か買いました。
図鑑は図鑑でまた眺めるとして、そのときこんな温泉土産を見つけました。
表紙には『高山植物集―下呂温泉』と書かれています。
言わずと知れた岐阜県の名湯。
言わずと知れた岐阜県の名湯。
一見印刷に見えますが、この「木目」は紙のように薄く削った材を厚紙に張り付けてあります。茶色い模様は、水を運ぶ導管の断面。
巻頭を飾るのはスズランの押し花。
スズランも今ではすっかり身近な存在になりましたが、当時は北の大地をイメージさせる、可憐なロマンの匂う花だったと想像します(…というより、そうした時代のリアルな記憶は、私にもちょっぴり残っています)。
そういう甘い感傷を、科名や学名を添えたラベルが、程よく抑えているのが好ましい。
フデリンドウとウメバチソウ。
よく見ると、押し花を留めているテープには、表紙とおなじ薄い材を使っています。
よく見ると、押し花を留めているテープには、表紙とおなじ薄い材を使っています。
折本仕立ての「本」に貼られた標本は、全部で10種類。
この本は約14×9.3cmほどの、文庫本よりもちょっと小さいサイズですが、そこに収まるよう、小ぶりの標本をうまく選んであって、感心させられます。
この本は約14×9.3cmほどの、文庫本よりもちょっと小さいサイズですが、そこに収まるよう、小ぶりの標本をうまく選んであって、感心させられます。
★
この旧かな表記の土産本は、一体いつのものなのか?
この本に発行日の表示はありませんが、その答は標本を貼った面の裏側にありました。
この本に発行日の表示はありませんが、その答は標本を貼った面の裏側にありました。
以前の持ち主が、これを購入したのは1957年(昭和32)8月28日。
彼は前日の8月27日に姫路を発ち、下呂で一泊したあと、翌日には帰路についています。湯治にしてはずいぶんと慌ただしい旅程ですが、まあ、忙しい人だったのでしょう。
彼は前日の8月27日に姫路を発ち、下呂で一泊したあと、翌日には帰路についています。湯治にしてはずいぶんと慌ただしい旅程ですが、まあ、忙しい人だったのでしょう。
それにしても…と思います。
高山植物には、今でも美しく可憐なイメージがありますが、58年前には、そこにもっと「露骨なロマン」があったのではないでしょうか。このお土産を購入した某氏も、そこにひどく甘美なものを感じたと想像します。
当時は、「ディスカバージャパン」キャンペーンの前ですから、旅の意味合いは戦前に近いものであり、山麓から眺める高山の景が、都会人の旅情をいかに掻き立てたかは、想像に難くありません。
今ではすっかり色あせたチゴユリ。
草の姿は今も変わりませんが、それが放つオーラは大いに変わったように思います。
草の姿は今も変わりませんが、それが放つオーラは大いに変わったように思います。
★
そもそも、高山のイメージは長い歴史の中でずいぶん変遷があって、科学文化史家のマージョリー・ホープ・ニコルソンによれば、「山岳美」とは18世紀人が発見(ないし発明)したものであり、それ以前は、雄大なヨーロッパ・アルプスの山並みも、人々の目には美しいものと映じていなかったそうです。
コメント
_ S.U ― 2015年07月25日 07時51分07秒
_ 玉青 ― 2015年07月25日 17時47分01秒
これは体験的ご示唆をありがとうございます。
純正ロマンは、「青い山脈」というタイトルにときめきを感じたあたりまでですかねえ(笑)。ディスカバージャパン以降は、ロマンというよりも、妙な民芸調というか、フォーク調というか、メルヘンチックな路線がかぶさってきたのを、何となく覚えています。
始まりの方は意外に早くて、牧野博士が高山植物図譜を編んだ明治末年あたりには、早くも「高山ロマン」の芽生えがあったと睨んでいますが、一般化したのは確かに昭和戦前ぐらいかもしれませんね。
純正ロマンは、「青い山脈」というタイトルにときめきを感じたあたりまでですかねえ(笑)。ディスカバージャパン以降は、ロマンというよりも、妙な民芸調というか、フォーク調というか、メルヘンチックな路線がかぶさってきたのを、何となく覚えています。
始まりの方は意外に早くて、牧野博士が高山植物図譜を編んだ明治末年あたりには、早くも「高山ロマン」の芽生えがあったと睨んでいますが、一般化したのは確かに昭和戦前ぐらいかもしれませんね。
_ S.U ― 2015年07月26日 07時51分45秒
>「青い山脈」~フォーク調
(笑)
その後は、演歌にも登場するようになりました。演歌では、山地の方面に旅には出るのですが、高山の日当たりのよいところというより、ちょっと低い山かげに咲いているようです。
高山植物文化史だか、日本歌謡史だかわからなくしてしまいました。研究手法に問題有りです(笑)。
(笑)
その後は、演歌にも登場するようになりました。演歌では、山地の方面に旅には出るのですが、高山の日当たりのよいところというより、ちょっと低い山かげに咲いているようです。
高山植物文化史だか、日本歌謡史だかわからなくしてしまいました。研究手法に問題有りです(笑)。
_ 玉青 ― 2015年07月26日 19時36分01秒
では、方法論からじっくりと考究することにいたしましょう。
あるいはここから「浪漫文化史」という、より大きな学問体系が生まれるやも…。
あるいはここから「浪漫文化史」という、より大きな学問体系が生まれるやも…。
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これは微妙なニュアンスというか言い得て妙というか、確かにそうでしたね。今は、「高山植物にはなんかロマンがあるねー」程度ですが、昔はそんな甘っちょろいものではなく by definition で 「高山植物≡ロマン!」って感じでした。
私は、1960年代に、近所の人から、信州方面のお土産と見られる高山植物の絵はがき集をもらったことがあります。それは写真とかスケッチではなく、抒情性をたっぷり込めたイラスト風絵画でした。気に入って、時々取り出してはひとりで見ていました。
いずれにしても、日本に短いながらも、「高山植物≡ロマン」の時代があったことは記憶しておくのがよいですね。
短いと書きましたので、期間を考証したいと思います。個人的記憶では、ディスカバージャパンの1970年頃にはすでに終結していたと思います。しかし、私はその時代を体感していますので、1960年代後半までは続いてように思います。
始まりはどうでしょうか。大正ロマン時代に高山植物の話題はあまり聞かないので、登山家はともかく一般に広まったのは、もっとあと昭和に入ってからで、牧野富太郎、野尻抱影らが「自然科学列車」を実施した時代(1934)から、高峰三枝子の「湖畔の宿」(1940)、灰田勝彦の「新雪」(1942)が流行するころまでには定着し、大戦激化の前にほぼ確立していた、というとりあえずの仮説で、昭和10年頃~40年頃の現象とみてはいかがでしょうか。