理科なでしこ2016年02月07日 11時29分33秒

イギリスの理科室風景につづき、同時代の日本の理科室も見てみます。


こちらも、少女たちが真剣に理科に取り組んでいる光景です。


表面のキャプションには「安井尋常小学校/理科教室」とあり、裏面には「安井校創立五十周年紀念/大正七年十月」のスタンプが押されています。

大正7年(1918)の時点で、既に50年の歴史を刻んでいたというのですから、これは相当古い学校です。パパッと検索したところでは、おそらく明治2年(1869)に、京都の東山に開校した安井尋常小学校(現・開睛小学校)の絵葉書でしょう。


今日の授業は、硫黄の加熱実験。
板書を見ると、硫黄の入った試験管をアルコールランプで熱し、固体から液体、さらに気体に変るさまを観察させるというものです。

明治の末(1907)に、小野田伊久馬という人が書いた、『小学校六箇年 理科教材解説』という本を見ると、「硫黄は〔…〕百十四度の熱にて液状となり、四百四十六度の熱にて、沸騰し黄褐色の瓦斯体となる。火を点ずれば、青色の焔をあげて燃焼し、硫黄鼻を衝く」と書かれており、それらを確かめる実験なのでしょう。

板書の文字は、「固体→液体→気体」ときて、最後にまた「気体→固体」となっています。小野田前掲書には、「硫黄は、火山より噴出する瓦斯より分離する故、火山の近傍に産出するもの多く」云々の記述があって、授業ではそうした博物学的事項も併せて教授したのかもしれません。


硫黄の気化実験は危険を伴うので、髭の先生もギロリと怖い顔で監督していますし、


生徒たちの表情も真剣です。


まあ、それはそれとして、袴と黒髪はいいですね。
なお、ここに女子ばかり写っているのは、当時は男組と女組に分れてクラス編成されていたからでしょう。

   ★

この理科室の光景は、同時代のイギリスとまんざら無関係ではありません。いや、むしろ大いに関係があります。

こういう風に生徒自身に実験・観察をさせて、自然の法則に気づかせるよう仕向ける方法は、棚橋源太郎らが中心となって、新たにイギリス流の「発見的(ヒューリスティック)」授業法を取り入れて編み出したもので(それまで日本の理科教育は、ドイツ一辺倒でした)、第一次大戦後、日本中で大いに流行した授業スタイルです。

ですから、この京都の小乙女たちは、昨日のウェールズのリトル・レディと「理科姉妹」の関係にあった…と言えるかもしれません。

コメント

_ S.U ― 2016年02月08日 08時29分03秒

これも貴重な絵はがき写真ですね。
 またも身内の事情の話になって恐縮ですが、これが大正7年に尋常小学校高学年である女子児童の写真だとしますと、私の祖母とほぼ正確に同年代ということになります。(私の祖母も京都府の尋常小学校を出たと思いますが北部だったのでここに写っているはずはありません)

 私の祖母は、ずっと田舎にいて農業ばかりをしていた人ですが、私が子どもの頃、自分が学校で習った社会科などのことをよく話してくれました。私は、遠い昔の何の役に立たない情報だと思いながら聞いていましたが、大正時代の学校では身近な話題とは言えないような外国の話を先生がよく話してくれ、児童も目を輝かせて聞いたのだと思います。その後、私が成長してからも、祖母は意外と科学的なきらめきを見せるような言葉をいうことがあり、おやと感心するようなこともありました。今ではこれは大正時代の教育のためだったのかと思っています。この写真で、さらに具体的な「イメージ」が見えてうれしく思いました。

_ 玉青 ― 2016年02月08日 22時16分48秒

今改めて振り返ると、大正期は日本の近現代史の中では、相対的に自由と落ち着きのある時代でしたね。まあ、昭和になって一番苦労された世代でもありますけれど、でもやっぱり当時の経験は自分にとって良い思い出だ…という方が多いのではないでしょうか。(それを親しく語ってくれる方もほとんどいなくなりましたが。。。)

_ S.U ― 2016年02月09日 07時35分29秒

>それを親しく語ってくれる方もほとんどいなくなりました
 そうですね。大正期後半から昭和の戦争の時期までにどういうことが起こったか、その知識も感じ方も世代によって変わるとしたら、もう我々がそれを祖父母に替わって語るべき時代になったのかもしれないと思います。

_ 玉青 ― 2016年02月10日 07時09分13秒

語り部も次第々々に順送り…ですね。
ええ、語るべきことは、大いに語りましょう。

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