京都へ(1)…同志社大学にて2016年05月18日 06時37分14秒

5月の京都へ行ってきました。
同志社大学で、6月25日まで開催されている新島襄の見た宇宙」展を見学し、併せて記念講演会を聞きに出かけるためです。このイベントについては、先日もご紹介しましたが、会場は同大学のクラーク記念館です。


この瀟洒な明治建築の中の静かなチャペルで、日本の天文学史の意外なエピソードに耳を傾けたのでした。


元洛東高校教諭の西村昌能氏による講演は、同志社の創設者・新島襄と、「少年よ大志を抱け」でおなじみのクラーク博士の、天文学を介した結びつきを解き明かす内容で、それだけでも興味深いものですが、さらに両者の接点が「隕石」だったと聞けば、これは大いに好奇心をそそられます。

なぜ隕石か。
クラーク博士は札幌農学校の礎を作り、マサチューセッツ農科大学の学長も務めた人ですから、専門は農学と思いきや、そもそもドイツで学位を取った際の研究は、隕石の化学分析であり、新島襄に対しても、日本で発見された隕石の資料提供を求める手紙を書き送っていた…というのが、講演会のひとつの聞きどころでした。

地球外生命探査というと、何となく最先端の研究テーマのように聞こえますが、地球外生命の存在は、これまで肯定と否定の歴史を繰り返しており、クラーク博士の頃は、肯定的意見が強い時期で、博士の研究も、隕石中の有機物を定量分析することに主眼があったそうです(クラーク博士の場合、生命の遍在に対する信念は、キリスト教的背景があったのかもしれません)。

さらに西村氏の講演は、新島襄の天文学の研鑚の跡をたどり、アメリカ留学時代のエピソードを紹介し、隕石学の歴史へと説き及び、明治天文学の多様な側面が、そこでは語られました。

(チャペルの天井)

西村氏に続き、講演会の後半は、元同志社大学教授の宮島一彦氏による、新島襄旧蔵の天球儀の話題を中心とした、東西の天球儀に関する講演でした。

新島の天球儀というのは、元禄14年(1701)、おそらく渋川春海の星図を元にして作られたもので、元の作者は不明ですが、新島が岡山の骨董店で見つけて買い入れたという由緒を持つ品です。

日本製天球儀といっても、当時の星座名は、中国のそれをそっくり踏襲しており、赤・黒・金に塗り分けられた星々の間を、金箔散らしの銀河が流れ、その現物は講演会後に実見しましたが、作行きも保存状態も良い、実に美しい紙張子製の品です。

ここで「赤・黒・金」というのは、中国星座には古来三系統あることに対応するもので、それぞれ魏の石申、斉の甘徳、殷(商)の巫咸が設定したものとされます。
渋川春海は、そうした伝統的な中国星座に加えて、オリジナルの星座も設定しており、通常それは「青」で図示されるのですが、この天球儀にはそれが表現されていないことから、この天球儀の成立事情がうかがえる…ようなのですが、詳細は今もって不明のようでした。

新島がこの天球儀を、いつ、何の目的で購入したかも、今となっては不明ですが、彼が西洋の天文学だけでなく、東洋天文学にも関心を向けていたことは、大いに注目されます。

なお、新島の天球儀は固く撮影禁止で、ネット上でも画像が見当たりません。
唯一、同志社大学図書館のトップページ(↓)にその部分図が、今日現在載っていますが、これは定期的に差し替えられているかもしれないので、詳細を知るには現物を見るしかありません。お近くの方はぜひ。(繰り返しますが、展示は6月25日までです。)
http://library.doshisha.ac.jp/img/index/main.jpg

   ★

上記の天球儀を含め、「新島襄の見た宇宙」展の会場は、クラーク記念館の隣のハリス理化学館です。


同志社では創立当初から天文学の講義が行われ、この明治23年(1890)竣工の建物にも屋上に天文台が設置されていた…というのは、たいへん興味深い点で、これは新島が学んだアメリカ流リベラルアーツの伝統を継ぐもの、すなわち「教養」として、天文の知識を重視したことを示すものでしょう。

(ハリス理化学館同志社ギャラリーのリーフレットより。創建当時のハリス理化学校。屋上の八角形の構造物が天文台)

日本の天文学史というと、東大があって、京大があって、官製の天文台があって…というところに記述が集中しがちですが、それとは別に、こういう流れもあったことは、特筆すべきことと思います。

ただし、たいへん残念なことに、この同志社の天文台は、明治24年(1891)に起きた濃尾地震によってその安全性を危惧され、早くも明治26年(1893)に撤去されてしまいました。今は天文台へと通じる、らせん階段がのこされているのみです。

(この上は屋根裏部屋に通じ、今は物置のようになっているそうです)

(外から見た階段室)

こうした教育が日本でも根付いていたら、その後の歴史はどうなっていたろう…と思いますが、でも当時の諸条件を考えると、やっぱり難しかったのかなあ…とも思います。

(ハリス理化学館正面。1889の年号と「SCIENCE」の文字。)


(「タルホ的なるもの」は小休止して、京都の話題を続けます。次回は再びLagado研究所へ)

コメント

_ S.U ― 2016年05月19日 07時54分11秒

同志社大学の理科系リベラルアーツについては(リベラルアーツを理科系文化系に分けてはいけないのでしょうが、いわゆる理科系視点からみた教養という意味です)、その存在すらあまり知らなかったのですが、伝統から先進性から宗教も哲学もひろい観点をカバーしているようで、今後の「教養教育」の参考になるものなのでしょうね。教養を見失いつつある現代に必要なことではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2016年05月19日 21時08分24秒

「教養で腹がふくれるか!」
…なんて無教養なことを言う人は、昔は少なかったと思うんですが、最近は本気でそう思っている人がいるらしく、まことに寒心に堪えません。そういう人は、人間は腹以外にも、いろいろな要素から出来ていることを忘れているのでしょう。それとも、彼(彼女)は、本当に全身腹だけでできているのでしょうか。

_ S.U ― 2016年05月20日 07時40分40秒

>「教養で腹がふくれるか!」 ~まことに寒心
案外、最近は、教養で腹をふくらませるべき事案がじわじわと増えてきているのかも知れませんね。
 原発再稼働、高齢者医療、AI支援の利用、防衛費負担など、いずれも科学技術と経済性だけでは話が閉じず、立法論や政治決着で単純に片付く問題でもなく、総合的判断として広く国民の「哲学的」な合意が必要で、こうなるとリベラルアーツの支援無しには適度な金銭の支出すらどうにもままならない状況になってきているように思います。

 過去において、古代ギリシア、古代中国、ルネサンス、近世~近代ドイツなどリベラルアーツないし哲学が盛んだった時代は、それなりの要請背景があったのだと思います。いやが応にもまたそういう時代が近づいてきているならば・・・ますます寒心に堪えません。

_ 玉青 ― 2016年05月20日 21時13分35秒

むむ、これはクセ球ですね。(^J^)
でも、ここは一球見送って、やっぱり教養とは腹を満たすのではなく、心を満たすものだという立場を堅持したいです。教養とは、時として(腹派に言わせれば)「愚かな」選択をあえて行うよう仕向けるところすらあるんじゃないでしょうか。

_ S.U ― 2016年05月21日 06時30分13秒

>クセ球
 渾身のクセ球もアッサリ見送られてしまいましたか(笑)。

 まあよろしいです。
 「こんなもの日常の役に立たない」と研究者自身が居直っていたようなものが、何十年かのうちには役に立って役に立って困るほどになるのが世の常ですから、ここは甘んじて待つことにします。
 どれだけ待っても役に立つようにならない学問があれば、それこそ比類なき貴重な学問かもしれません。

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