緑の恐怖 ― 2012年11月01日 06時11分14秒
ふとカレンダーを見たら、今日から11月なんですね。
俳句の世界だと、すでに冬。びっくり。。。
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さて、昨日のつづき。
以前、古い星図帳(アトラス)を買いました。ぎりぎり古星図と言ってもよいであろう、19世紀半ばのものです。
俳句の世界だと、すでに冬。びっくり。。。
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さて、昨日のつづき。
以前、古い星図帳(アトラス)を買いました。ぎりぎり古星図と言ってもよいであろう、19世紀半ばのものです。
(クリアカバーがかけてあります)
■E. Otis Kedall
Atlas of the Heavens (designed to accompany the URANOGRAPHY)
Butler & Williams, Philadelphia, 1845
同じ著者の『Uranography』という天文教科書の付図として刊行されたもので、18枚の星図を含みます。
中身はこんな感じで、黄・ピンク・緑・茶色の4色で塗り分けられた、わりと素朴な図柄の星図です。これだけだと、まあ普通ですが、驚いたのはその裏面。
パッチ状の濃い茶色のしみで、裏面全体がまだら模様になっています。
このシミのでき方には規則性があって、緑に塗られたところだけが焼けてしまっています。さらにこの「焼け」は、裏面だけではなく、対向面(本を閉じたときに緑の区画と接触する部分)にも生じており、かなり強烈な作用です。
(↑上から:緑に塗られた“ちょうこくしつ座”、その裏面、対向面)
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この現象は、昔の緑の絵の具に含まれる銅と酸の作用によるものだそうです。
裏返せば、彩色された時代の古さを物語るものですが、しかし、昨日のKanas氏やBrown氏によれば、こういう部分にまで気を配って、完璧な古彩色に迫ろうとする現代のアーティストもいるそうで、なかなか彩色のみで時代判定をするのは難しいようです(むしろ「紙」の方がずっと雄弁だ…というようなことをBrown氏は述べています)。
斯道深し。。。
【付記】
「緑の恐怖」と文字を打って、何か聞き覚えがあると思ったら、ウルトラセブンにそういう回がありました(植物状のワイアール星人が登場)。
朋あり、遠方より来たる ― 2012年11月02日 18時42分51秒
やあ、よく来たね。お目にかかれて嬉しいよ。
まあ、毎日会っているようなもんだけど、こうしてきちんと対面するのは初めてだね。
いつもお世話になるばかりだから、一度ちゃんとお礼を言いたかった。いや、どうもありがとう。
まあ、毎日会っているようなもんだけど、こうしてきちんと対面するのは初めてだね。
いつもお世話になるばかりだから、一度ちゃんとお礼を言いたかった。いや、どうもありがとう。
どうだい、さっそく一杯?
…ああ、そうか、こいつは、君には無用のものだったね。
え?そうでもない?たまには、呷(あお)りつけてみたいときもあるって?
あはは、そんなもんかな。たしかに、君が一杯やるところをぜひ見てみたいけれども、実際どうなんだろう。こればかりは「ウロボロス的謎」というほかないね。
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京都科学製のエタノール分子模型。
昭和50年頃の品でしょうか。「京都科学標本(株)」が「(株)京都科学」に社名変更したのは昭和63年なので、少なくともそれ以前のものです。売り手さんによれば、理化学器材問屋の倉庫に眠っていた品だそうです。
休日はデロールへ(附・国書刊行会からの挑戦状) ― 2012年11月03日 17時15分46秒
最近、みんなが実感をこめて口にする言葉。「今年は秋がなかった。」
ええ、本当に寒くなりました。
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さて、久しぶりにパリの老舗博物商の話題。
「休日はデロールへ」と言っても、実店舗は日曜は休みだそうですが、しかし、日曜だろうと盆正月だろうと、いつでもデロールに行ける時代がついにやって来ました。各地の博物館ではお約束のヴァーチャルツアーが、ついにデロールでも始まったからです。
ええ、本当に寒くなりました。
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さて、久しぶりにパリの老舗博物商の話題。
「休日はデロールへ」と言っても、実店舗は日曜は休みだそうですが、しかし、日曜だろうと盆正月だろうと、いつでもデロールに行ける時代がついにやって来ました。各地の博物館ではお約束のヴァーチャルツアーが、ついにデロールでも始まったからです。
ペパーミントグリーンの壁。
デコラティブな漆喰仕上げの天井。
木製の什器類。
その空間全体に満ちあふれる、剥製・剥製・剥製、標本・標本・標本。
美しくも不思議な世界がそこにはあります。
強いて難点を言えば、ちょっと小綺麗すぎる気がしなくもありません(火事で修繕されたばかりのせいもあるでしょう)。個人的にはもう少しアヤシサが欲しいのですが、稀有な空間であることは間違いありません。
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この情報、実は私のオリジナルではなくて、Tizit さんに教えていただきました。
どうもありがとうございました。
Tizit さんの熱い思いが伝わる元記事は以下。(なお、投稿者は fumi さん名義になっていますが、ここでは以前から耳に親しい Tizit さんという HN でお呼びします。)
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で、さらに Tizit さんの別記事に便乗ですが、以下は、これまたとびきり濃厚なヴンダー風味の内容で、驚異の部屋に関心のある人であれば、目を剥くこと必定。
記事の表題にある「私が選ぶ国書刊行会の3冊」という小冊子、その内容は各界著名人が、同社の刊行物について語るというもののようですが、ここで問題となるのはその表紙です。上の Tizit さんの記事でご覧いただけるように、これが古今東西の珍物を配列した、まさに「紙のヴンダーカンマー」とも呼ぶべきデザインで、しかも個々のアイテムについては一切の説明がありません。いかにも謎めいています。
「国書刊行会っていうのはな、そんな簡単に分かった気になってもらっちゃ困るんだよ。どうだ、そこのお前さん、こいつらの正体が分かるか?」という、高踏的な挑戦状のようにも感じられます。
その挑戦に応えられた Tizit さんの赫たる戦果が、上の記事では報告されています。何せモノの正体に加えて、できればその直接的な画像ソースまで特定しようというのですから、これはものすごい難仕事で、Tizit さんの力技には只々呆然です。
さらに私の功績(笑)にも言及していただいた、その追加報告は以下。
しかし、Tizit さんの奮戦にもかかわらず、陥落しないモノたちがまだまだ複数あって、依然不敵な、そして奇怪な笑みを浮かべています。
博識自慢の方、検索自慢の方、ぜひ勇を奮って、この挑戦に応じられんことを!
天地明察アゲイン…渋川春海の時代の望遠鏡を考える(1) ― 2012年11月04日 19時50分41秒
先月はしばらく記事が書けなかったので、いろいろ書き残したことがたまっています。
そこで「アゲインシリーズ」(いつの間にシリーズ化?)の2番目として、映画「天地明察」に登場した、渋川春海の望遠鏡について取り上げます。
そこで「アゲインシリーズ」(いつの間にシリーズ化?)の2番目として、映画「天地明察」に登場した、渋川春海の望遠鏡について取り上げます。
以前―今見たらひと月半も前に―、映画の小道具として登場した望遠鏡について、ちょっとイチャモンめいた記事を書きました。曰く「こんな真鍮製の鏡筒の、しかも木製三脚に乗った望遠鏡が、当時の日本にあったのかなあ…どうも怪しいぞ…」という内容でした。
(画像再掲)
上の記事のコメント欄で、Haさんとmimiさんに、映画に登場する望遠鏡は外国製という設定だと、ご教示をいただきました。もちろん小道具に使われたのはインド製の安価なレプリカですから、あれと全く同じものが当時あった筈はありませんが、「しかし外国製だとすれば、金属製の鏡筒もありかな…でも架台の方はどうかな?」と再度頭をひねりました。
ここで、改めて自覚したことは、日本製にしろ、外国製にしろ、17世紀後半の望遠鏡というのは、実際どんな形をしていて、どんな使われ方をしていたのか、我ながらモヤモヤっとしているということでした。
例によって緻密な考証とは無縁ですが、いくつか当時のイメージを眺めて、「かくやあらむ」と想像してみたいと思います。
(この項つづく)
天地明察アゲイン…渋川春海の時代の望遠鏡を考える(2) ― 2012年11月05日 21時21分24秒
昨日の段階では、「前編、中編、後編」でまとめようと思いましたが、どうも先行きが不透明なので、「(1)、(2)…」に修正します。
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さて、渋川春海(1639-1715)による改暦事業をテーマにした「天地明察」。
映画は未見ですが、若い頃の印象的なエピソードとして出てくる、全国を回って天の北極高度(すなわち、その地点の緯度)を測定する旅に出たのが1658年で、その後、改暦の意見書を幕府に提出したのが1673年、そして最終的に貞享暦が採用されたのが1684年です。大雑把に言って、物語の背景は1660~70年代で、春海が望遠鏡を覗いたのもこの頃の話でしょう。
(宮﨑あおい演ずる、春海の妻「えん」。ネットから引っ張ってきたイメージ)
今、手元に中村士氏の『江戸の天文学者 星空を翔ける』を置いて、この文章を書いていますが、同書によれば、春海が望遠鏡を使用したのは確かなようで、同書の「春海が新設した星座」の項には、弟子の谷秦山(たに・しんざん)が師匠・春海の言行を録した『壬癸録』(じんきろく)を挙げて、次のように書かれています(p.44-45)。
「ところで、春海は望遠鏡を使用したのだろうか。『壬癸録』を調べる限り、巻二で一箇所だけ望遠鏡について述べている。「北極太子の側に一小星がある。望鏡をもってこれを窺うと見ることができる。今これを御息所と名付けた。東宮(皇太子)の時の妻のことである」とある。太子は北極星を含むこぐま座のγ星という3等星で、渡辺敏夫によると、そのそばに附属した11番なる番号の星がこの小星(5.3等星)らしい。」
さらに、上の文中に名前の出てくる渡辺敏夫氏の本、『近世日本天文学史(下)』には、「保井〔渋川〕春海は幕府所蔵の望遠鏡を使用できたのか、銀河を観望して微小の星の集合であることを認めているし」云々とあって(p.578)、彼は望遠鏡の筒先を空のあちこちに向けていたことがわかります(ただし、渡辺氏の文章には出典が明記されていません)。
もちろん、春海が使用したのがどんな望遠鏡だったかは、これだけでは分かりません。
1609年にガリレオが望遠鏡で星を観測してから、わずか数年後には日本にも早々と望遠鏡が伝来したらしく、17世紀半ばには国産望遠鏡も作られるようになっていました。また、それと並行して、長崎のオランダ商館から将軍や大名家に舶来望遠鏡の献上もしばしばあったので、春海の使用した望遠鏡は、国産・舶来いずれでもありえます。そして、国産ならば鏡筒は紙、舶来なら金属の可能性が高まります。
で、ここでは映画の設定どおり、徳川光圀あたりから舶来ものを供与されたと仮定した場合、それはどんな姿形のものであったかを考えることにします。
(この項さらにつづく)
H. C. King 『望遠鏡の歴史』 ― 2012年11月07日 22時15分22秒
春海の時代の望遠鏡の話は、そう焦る必要もないので、ぼちぼち寄り道をしながら書いていきます。
寄り道のひとつとして、17世紀の望遠鏡の実像を知るために、今斜め読みしている本があります。望遠鏡史の分野において、おそらく最も重要な基礎文献、Henry C. King の『The History of the Telescope』(初版 1955)です。一時はけっこう稀本でしたが、現在はDover社から、ペーパーバックのリプリント版が簡単に手に入ります。
で、今最初の方の章を拾い読みしているのですが、私は17世紀の望遠鏡をかなり誤解していたことが分かりました。
たとえば、17世紀の望遠鏡というと、ヨハネス・ヘヴェリウス(1611-1687)の長大な空気望遠鏡(↓)の話題が必ず出ますが、私はあの珍奇な望遠鏡を、「たしかに当時の“代表的な望遠鏡”かもしれないが、決して“標準的な望遠鏡”ではないだろう」という風に、いわば時代の徒花的存在だと思いこんでいたのです。
しかし、King の本を読むと、17世紀はまさに「ロング望遠鏡の時代」で、ヘヴェリウスの望遠鏡は、決して変人が作った孤立例などではないらしいのです。
とはいえ、まだ斜め読みなので、もうちょっと内容を咀嚼した上で、春海の望遠鏡の話につなげていこうと思います。
とはいえ、まだ斜め読みなので、もうちょっと内容を咀嚼した上で、春海の望遠鏡の話につなげていこうと思います。
天地明察アゲイン…渋川春海の時代の望遠鏡を考える(3) ― 2012年11月08日 19時03分54秒
何だか書いているうちに記事が長くなったので、3つに分割して、一昨日にさかのぼってアップすることにします(現在は11月10日です)。
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17世紀、江戸時代の幕開けとともに日本にも望遠鏡が入ってきましたが、それはどんな姿をしていたか?
前掲の渡辺敏夫氏『近世日本天文学史』の第5章は、「望遠鏡の歴史」に当てられています。その実例を見ると、1613年にイギリス東インド会社から派遣されたジョン・セーリスが家康に献上した望遠鏡は「銀台鍍金の筒入望遠鏡」であり、1641年に家光が「蘭人貢物」として受け取ったのは「千里鏡、金装千里鏡」でした。「金装」とわざわざ断っているのは、金メッキを施した立派な献上用望遠鏡のほかに、グレードの落ちる一般用望遠鏡(紙製あるいは木製)も同時に受け取ったからでしょう。いずれも現物は残っていません。
現存する日本最古の望遠鏡は、中村士氏が調査を行った、徳川美術館所蔵のもので、尾張藩初代藩主・徳川義直(1600-1650)所用と伝えられるものです。
これはヨーロッパ出来の品ではなく、長崎あるいは中国製のものと考えられています。外観は、4段伸縮・総長1.2メートルの手持ち式です。光学系はガリレオ式(凹凸レンズ各1枚)ではなく、シルレ式(凸レンズ4枚構成)を採用し、倍率は4倍。鏡筒は紙製漆塗り、いわゆる一閑張りで仕上げられ、部分的にべっ甲や象牙を使用した豪華なものです。
(↑小さい画像で恐縮ですが、これが日本最古の望遠鏡。
出典:http://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/article.aspx?id=20050811000470)
(この項つづく)
天地明察アゲイン…渋川春海の時代の望遠鏡を考える(4) ― 2012年11月09日 19時04分40秒
17世紀は、まだ反射望遠鏡が実用化されていない時代ですから、望遠鏡イコール屈折式です。そして、初期の屈折望遠鏡といえば、元祖・ガリレオの望遠鏡が目に親しいと思います。
思うに、これが私の誤解のはじまりかもしれません。
つまり、ガリレオ望遠鏡はまさに現代の屈折望遠鏡をプリミティブにしたような姿をしているので、ガリレオ望遠鏡がそのまま漸次進化して現代の望遠鏡になったのだ…と、私は無意識のうちに思い込んでいました。
しかし、屈折望遠鏡にかぎっても、天体望遠鏡の進化にはいろいろな曲折があって、決して単線進化したわけではない、ということを、キングの本を見ながら、改めて感じました。
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屈折望遠鏡の泣き所は、像のボケとにじみ、すなわち球面収差と色収差ですが、それを克服する近道は口径比(F値)を大きくすることです。当然17世紀の人も、同一口径なら長焦点が有利と考えて、17世紀の後半に入ると鏡筒はどんどん長く伸びていきました。(そこには同時に、高倍率への欲求を満たす目的もありました。)
で、ここでいう「進化の曲折」とは、長焦点化が現代人の想像をはるかに超えて進んだことです。今の常識でいえば、F値は大きくてもせいぜい15ぐらいでしょう。つまり口径10センチなら焦点距離は150センチです(屈折望遠鏡の場合、大雑把にいえば望遠鏡の長さが150センチということです)。
しかし、キングの本によれば、当時のF値は文字通り桁外れでした。
「望遠鏡は今やますます長くなっていった。口径がわずかでも大きくなれば、それ以上に大きな長焦点化がそれに続いたからである。やがて後者は、口径比1:150〔=F値150〕という望遠鏡も決して稀ではないほど、極端なレベルにまで達した。17世紀の版画には、高い柱の上からロープと滑車で吊るされた、長くてやわな鏡筒をもった、そうした望遠鏡の型破りな姿が描かれている。」(p.50)
口径10センチ、鏡筒が15メートルの望遠鏡をはたして想像できるでしょうか?当時はそんな望遠鏡がのし歩いていた時代なのです。
(↑1690年にオランダで出版された本の挿絵。なお、私は昔これを後世の贋作ではないかと書きましたが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/04/15/327886)、それは誤解で、やっぱり本物のようです。)
前回の記事に登場した、ヨハネス・ヘヴェリウス(1611-1687)の天文家人生は、この望遠鏡の長大化時代と重なっています。
ヘヴェリウスがその最初の著作、詳細な月面図で有名な『Selenographia』を世に問うたのは1647年ですが、このとき彼が所有していた望遠鏡は、すべて12フィート(約3.6メートル)未満のものでした。しかし、同時代のクリスティアン・ホイヘンス(1629-1695)が長焦点望遠鏡を使って土星観測で成果を上げたのに刺激され、負けじとばかりに長大望遠鏡の建造に乗り出します。60フィート、70フィートと筒はどんどん伸びていき、そしてついにあの150フィート(約45メートル)の空気望遠鏡が誕生します。
もう1人の同時代人、ジョバンニ・カッシーニ(1625-1712)も代表的な長大望遠鏡ユーザーで、彼が1684年に土星の衛星テティスとディオネを発見したときに使用したのは、100フィート及び136フィート(約30メートルと41メートル)の望遠鏡でした。
再びキングの記述から。
「パリ天文台にあった、カンパーニ製〔ジュゼッペ・カンパーニはローマのレンズ製作者〕の最大のレンズは、焦点距離が136フィートもあり、その大きさのために空気望遠鏡として使用された。だが、オランダ製のレンズに比べれば、それもごくささやかものに過ぎなかった。ハルトゼーカー(Hartsoecker)は、焦点距離が155フィートと220フィートのレンズを磨いたし、〔…〕フランス人物理学者のオズー(A. Auzout)にいたっては、300ないし600フィートという、全く実用性を欠いた焦点距離のレンズを製作した。オズーは、月面上の動物を眺めることを夢見て、その最も長焦点のレンズに1000の位の倍率を持たせることを思い描いていた。」(p.59)
『図説・望遠鏡の歴史』(朝倉書店)の中で、著者リチャード・ラーナーは、ヘヴェリウス、ホイヘンス、カッシーニらの望遠鏡を、いみじくも「光学的恐竜」と呼びました。本物の恐竜と同じように、屈折望遠鏡もいったん進化の袋小路に入って絶滅し、18世紀にはニュートン式やグレゴリー式の実用化に伴い、天体観測は反射望遠鏡に限るという時代が長く続きました。
屈折望遠鏡が再び頭角を現すのは、ヘヴェリウスの時代から約1世紀の後、1760年代に色消しレンズが発明されて以降のことです。ラーナーの比喩にしたがえば、現代の屈折望遠鏡は、こうした空白期を隔てて再登場した、いわば新生代の哺乳類のような存在なのでしょう。
(この項つづく)
天地明察アゲイン…渋川春海の時代の望遠鏡を考える(5) ― 2012年11月10日 19時06分53秒
(※今日は記事を3連投しました。2つ前の記事からお読みください。)
さて、以上のような時代背景を考えて、渋川春海の望遠鏡の話に戻ります。
さて、以上のような時代背景を考えて、渋川春海の望遠鏡の話に戻ります。
望遠鏡はたしかに17世紀の初頭から日本でも知られていました。
しかし、17世紀後半のヨーロッパのスタンダードからすると、天体観測機器としてのスペックを備えた望遠鏡は当然日本には存在せず、海の向こうで「光学的恐竜」たちがのし歩いていたことすら、春海や同時代の日本人は全く知らずにいました。
春海の時代に日本にあったのは、国産にしろ、舶来の献上品にしろ、要は地上用ないし航海用の「遠眼鏡」の類でしかなかったように思います。このことは、歴史的事実として1つ押さえておきたい点です。
ただ、そんな遠眼鏡でもガリレオは立派な観測を行ったわけですし、17世紀後半に入ってからも、小型屈折望遠鏡を使った天体観測がすたれたわけではありません。特にヨーロッパを遠く離れた東洋ではそうでした。
以下、いよいよ本題である、春海の観望風景を考える際のヒントとなりそうなイメージを順に見ていきます。
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(出典:ウィキペディア「クリストフ・シャイナー」のページより)
ドイツ人のクリストフ・シャイナー(Christoph Scheiner、 1575(3?)- 1650)は、イエズス会員にして天文学者。太陽の黒点を最初に観測した一人としても知られます。ヘヴェリウスの1世代前の人で、ガリレオ(1564-1642)に近い世代です。
(出典:リチャード・ラーナー『図説 望遠鏡の歴史』、朝倉書店、1984、p.17)
そのシャイナーのインゴルシュタット観測所。上の肖像画にも、窓辺に置かれた小望遠鏡が見えますが、17世紀前半の人であるシャイナーはもっぱら小望遠鏡を使って観測していたようです。架台はまだ三脚が用いられず、一種のピラー式ですが、いかにも細く頼りなげです。
ちなみに、ガリレオその人の望遠鏡の架台について、キングは「おそらく小型のユニバーサルジョイント(自在継ぎ手)と受け台を備えた、直立する複数の支柱もしくは三脚式架台から構成されていただろう」と書いており(p.41)、さらにシャイナーがそれを改良して、一種の赤道儀式架台をデザインしたことに触れていますが、実際にはまだ架台の重要性はそれほど認識されていなかったのでしょう。
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(出典:The Galileo Project http://galileo.rice.edu/sci/instruments/telescope.html)
ヘヴェリウス『月面誌Selenographia』(1647)の挿絵より。
稀代のロング望遠鏡愛好家のヘヴェリウスも、この頃はまだ「その道」に踏み出す前で、小望遠鏡ユーザーでした。前代に比べ架台はずいぶんとがっしりとなり、ロング望遠鏡時代よりも、むしろ現代の観望風景に近い感じですが、鏡筒そのものの剛性が乏しいせいか、「添え木」に固定されているのが注目されます。角度を正しく測定するにはそうする必要があったのでしょう。
稀代のロング望遠鏡愛好家のヘヴェリウスも、この頃はまだ「その道」に踏み出す前で、小望遠鏡ユーザーでした。前代に比べ架台はずいぶんとがっしりとなり、ロング望遠鏡時代よりも、むしろ現代の観望風景に近い感じですが、鏡筒そのものの剛性が乏しいせいか、「添え木」に固定されているのが注目されます。角度を正しく測定するにはそうする必要があったのでしょう。
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(出典:ウィキペディア「フェルディナント・フェルビースト」のページより)
清代の「お雇い外国人」、イエズス会宣教師のフェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest, 1623-1688)の肖像画にも屈折望遠鏡らしいものが描かれています。その架台は不明ですが、画面左手には何かの測器の脚部らしいものが見えています。儀器本体に加えて、こういう細部のデザインやアイデアが、長崎経由で日本に伝わっていた可能性は大きいと思います。
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以下の画像は、いずれも1680年代にイエズス会宣教師が、シャム(タイ)の王宮と天文台でおこなった観測風景です。出典はすべて「Astronomy in the 17th century(http://www.cosmicelk.net/telrev.htm)」。
遠眼鏡とあり合わせの架台を使った即席観望あり、西洋式の天文台に据え付けた本格的な望遠鏡を使った観測ありですが、最後の望遠鏡も、よく見ると下部に添え木っぽいものが見えるので、全体の構成はヘヴェリウス式のものだったのかもしれません。
この辺は、春海と同時代、しかも日本にその文化的影響が及びうる地域の実例ですから、春海の望遠鏡を考える際には、参考になろうかと思います。
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あれこれ寄り道をしましたが、いちばん最初の疑問に答えます。
春海の望遠鏡は、金属製の鏡筒だった可能性もありますが、しかし映画に出てきたような一本筒ではないはずです。おそらく多段伸縮式の、どちらかといえばなよなよっとしたものだと思います。架台は、あってもせいぜい簡単な一本足式のものではないでしょうか。そもそも望遠鏡のスペックが低いので、あまり架台に凝ってもしょうがないような気がします。(望遠鏡がやわだからこそ、しっかり見るために架台に凝る…という行き方もあるとは思いますが、であれば、もっとその観測記録が残っていても良さそうに思います。)
(この項とりあえず完結)
「これは!」が欲しい ― 2012年11月11日 20時21分34秒
1がずらっと並んだ11月11日。
今日は冷たい雨が降ったり止んだりの、暗い日曜日でした。
窓から見える黄色や赤の木々の中には、早くも葉を振り落として、冬支度を急いでいるものも見受けられます。
こういう日は、静かに雨の音を聞きながら、ぼんやりコーヒーでも飲んで過ごすに限ると思い、部屋にこもって怠惰な一日を送りました。
そんな折に、ちょっと呟いてみたいこと。
最近自覚するのは、どうも一頃より購買欲が衰えていることです。
まあ、歳をとって枯れてきたせいもあるでしょうし、物欲から解放されるのは、それ自体大いに結構なことだとは思います。
しかし、おちょぼ口で変に悟りすましたような顔をしているよりは、やっぱり「これは!」というものに目を輝かせている方が、本来の自分なのではないか…という思いも一方にはあって、その辺の心の整理がなかなか付きません。はたして「これは!」という機会が減ったのは、自分の内面の変化によるのか、それとも客観的に出物が減っているのか?
当面はその答を求めて、もがいたり、あがいたりすることでしょう。
皆さんは、最近「これは!」体験をされていますか?
何か面白いもの、爆発的に所有欲をそそるもの、いかにも洒落たもの、「これは!」というものが、どこかにないでしょうか?
今日は冷たい雨が降ったり止んだりの、暗い日曜日でした。
窓から見える黄色や赤の木々の中には、早くも葉を振り落として、冬支度を急いでいるものも見受けられます。
こういう日は、静かに雨の音を聞きながら、ぼんやりコーヒーでも飲んで過ごすに限ると思い、部屋にこもって怠惰な一日を送りました。
そんな折に、ちょっと呟いてみたいこと。
最近自覚するのは、どうも一頃より購買欲が衰えていることです。
まあ、歳をとって枯れてきたせいもあるでしょうし、物欲から解放されるのは、それ自体大いに結構なことだとは思います。
しかし、おちょぼ口で変に悟りすましたような顔をしているよりは、やっぱり「これは!」というものに目を輝かせている方が、本来の自分なのではないか…という思いも一方にはあって、その辺の心の整理がなかなか付きません。はたして「これは!」という機会が減ったのは、自分の内面の変化によるのか、それとも客観的に出物が減っているのか?
当面はその答を求めて、もがいたり、あがいたりすることでしょう。
皆さんは、最近「これは!」体験をされていますか?
何か面白いもの、爆発的に所有欲をそそるもの、いかにも洒落たもの、「これは!」というものが、どこかにないでしょうか?
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