二廃人、ロジックを談ず2015年06月27日 12時46分56秒

「言論の自由」ってあるじゃない。

ああ。

でさ、「言論の自由」を前提にすると、「『言論の自由をなくせ』っていう言論」も認められるのかな?

ははあ、例の百田問題だな。そんなの人に聞くまでもないだろ。言論の自由はあくまでも原則であって、「言論の自由をなくせ」という暴論までは認容されない…と考えれば、何の問題もないさ。

それはそうかもしれないけど、でも純粋にロジックとして考えたらどうかと思って。

なるほど。じゃあ、暇な議論に付き合ってやろうか。
まず両者の言い分は、こんなふうに言い換え可能だろ?
  A 「言論の自由は守られるべきだ」という命題は正しい
  B 「言論の自由は守られるべきだ」という命題は誤っている

うんうん。

論理的にAとBが両立することはない。だから、Aを主張する人はBを主張できないし、Bを主張する人はAを主張できない。つまり、言論の自由を掲げる人は「言論の自由をなくせ」という主張にくみすることはできないし、言論の自由を認めない人は、「言論の自由があるんだから、俺にも主張させろ」とは言えない道理さ。

   ★

なるほど、至極、常識的な話だね。
でもさ、ここで僕が気になるのは、「『言論の自由をなくせ』っていう言論」の部分なんだ。タチは悪いけど、これも確かに「言論」には違いないよね。で、これが言論に当るなら、ロジックとして、やっぱり「言論の自由」で保障されるべき対象となるわけだよね? …うーん、何だろう、このモヤモヤした感じは?


そうか、お前さんが引っかかっているのは、「自己言及のパラドックス」というやつだな。そういえば、「『すべての法則には例外がある』という法則」には例外があるか?という問題を、昔何かの本で読んだけど、それと似たところがあるな。

あ、たしかに似てるね。

この「例外の法則」に関していうと、「例外の法則には例外がない」と仮定しても、「例外がある」と仮定しても、最初の仮定と矛盾した帰結が得られるので、結局、「すべての法則には例外がある」という最初の文自体が、真とも偽とも言えない、論理的に無意味な文なのだ…というのが答になっていた。

じゃあ、「言論の自由」もそうなのかな?

ちょっと待てよ…。うーん、「例外の法則」と「言論の自由」はやっぱりちょっと違うかな。

というと?

「すべての言論の自由は保障されている。だから『言論の自由をなくせ』という言論の自由も保障されている」と言っても、別にそこに論理的矛盾は生じない。

え、そうかなあ。

よく考えてごらんよ。「言論の自由」が認めている「言論」は、価値判断はもちろん、論理的真偽とも一切無関係だよね。言論の自由が保障されている限り、「地球は平たい」と言ってもいいし、「人間の背中には見えない翼がある」と言ってもいい。それと横並びで、「言論の自由はけしからん」と言ってもいいわけさ。

ああ、そうか。それは何となく分かる。

「言論の自由をなくせ」いう主張が否定されるべきなのは、「言論は自由であるべきだから」という最初のテーゼが論拠になっているわけじゃない。
反対に、「『言論の自由を守れ』と言っている人が、『言論の自由をなくせ』という主張を否定するのは矛盾じゃないか」という主張も成り立たない。

ふむふむ。

「私は、『言論の自由は守られるべきだ』という前提に立って、『言論の自由をなくせ』と主張することは認めるが、それとは別の理由で『言論の自由をなくせ』という主張には反対する」と言っても全然かまわないのさ。上の「言論の自由をなくせ」のところに、「地球は平たい」を入れてみるといい。一目瞭然だろ?

ええと、「私は、『言論の自由は守られるべきだ』という前提に立って、『地球は平たい』と主張することは認めるが、それとは別の理由で『地球は平たい』という主張には反対する」。 ああ、本当だね。結局、この「言論の自由問題」は、見かけだけの「擬似パラドックス」だったってわけか。

まあ、そういうことになるかな。
詮ずる所、主張する行為を認めるのと、その主張の内容を認めるのとでは全然別物なのに、両者をゴッチャにしたため、混乱が生じたのさ。


   ★

…と、例によって頭の中のもやもやを、会話体でそれらしく書いてみましたが、書き手の方は、上の2人ほどスッキリ納得しているわけではないので、おかしなところがあればご教示ください。

コメント

_ S.U ― 2015年06月27日 16時18分50秒

言葉の論理としてはそのようですね。「地球が平たい」と言ってはいけないのは、平たくない証拠があって今やそれが日常生活に組み込まれている(たとえば、地球を一周して日本に帰ってきた人がいくらでもいる)からですね。言論の自由の主張もそれと同じというわけですか。なかなか難しいですね。

 それでも、「すべての言論の自由は保障されている。だから『言論の自由をなくせ』という言論の自由も保障されている」という言葉は良くても、そう主張する人はやはりおかしいように思います。仮に、その人の目標がかなって、言論の自由が禁止ないし制限された場合、結果として「言論の自由が保障されない状況」が生じてしまうからです。「言論の自由をなくせ」と言明した時点では言論の自由があったのですが、その後は言論の自由がなくなったとすると、これは、結局、「現在の言論の自由は認めるが、将来の言論の自由は認めない」といわば時限的に言っているのと同等なのではないでしょうか。それなら、時限的な主張であることを明瞭にしないと不正直な主張になると思います。

 「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり」のロジックに、ちょっと似ているように思いました。
 悪人の真似を始めた時点では悪人ではなかったのですが、人を殺してしまった後では悪人だというわけです。しかものちの取り調べや裁判で悪人の真似を徹底すれば、その後もずっと悪人として取り扱われることになるでしょう。

_ 蛍以下 ― 2015年06月28日 04時46分21秒

言論の自由を保証する主体は国家なので、公権力との関係においては何を言っても逮捕されない、訴追されないという意味で「主張する行為」の自由は人権として保証される。一方「主張の内容」については、人権の問題ではなく、主張内容それ自体の当否の問題だということでしょうか。
「自由」という言葉が一義的でないので混乱してしまいます。

_ 玉青 ― 2015年06月28日 10時01分55秒

S.Uさま、蛍以下さま

お付き合いいただき、ありがとうございます。
ご意見を読み、新たに分かったことがあります。

今回の話題は、元は熱い政治向きのことに発しているとは言え、基本的にあの懐かしきマーチン・ガードナー(数学ゲーム)風の話題として捉えていただければと思うのですが、改めて物語っぽく状況を整理してみます。

   +

あるところに、完全に言論の自由な国がありました(ここで言う「自由」とは「処罰されない」という意味です)。完全に言論が自由ですから、もちろん「『言論の自由を否定する言論』の自由」もありました。

長い平和な日々の後、この国によこしまな動きが生じました。
「言論の自由などなくしてしまえ。国家の手で言論統制を行え」という「統制派」の蜂起です。もちろん、この国には暴力行為や名誉棄損を処罰する法律が別にありましたから、「統制派」が実力行使に出ること(新聞社を襲撃したり、特定個人に罵詈雑言を浴びせること)は処罰の対象となります。しかし、現状においては「言うだけ」ならフリーです。

そして、それに対する対抗運動として、「基本的に言論は自由だが、『言論の自由を否定する言論』だけは禁止すべきだ(=処罰の対象にしよう)」と主張する「改良派」が出現し、論陣を張りました。もちろんこの主張もフリーです。

これら2つの動きに対し、「現状の『完全言論自由主義』を守れ」と述べる「原理派」もまた根強い支持を得て、国論はまさに三分の様相を呈するに至りました。

その後、「原理派」の中から、「『完全言論自由主義』を貫徹するため、統制派と改良派を処罰せよ」と主張する「過激原理主義者」が分派するに及んで、この国は完全にパラドックスの波に飲み込まれてしまったのです。

   +

…という具合に整理すると、途中までは論理的に問題なさそうですが、最後にガードナー風のパラドックスが顔を出して、私が記事で話題にしたかったのは(統制派の主張よりも)むしろこの部分だったのだな…と気づきました。結局のところ、「統制派」「改良派」「原理派」は、その主張の当否はさておき、いずれも論理の上では破綻なく成立しますが、「過激原理主義」だけは成り立ち得ないことになるのでしょう。

   +

それにしても、最近、妙に肩を怒らせてねじ込む人がいますよね。「俺が何を言おうと言論の自由じゃねえか。おめえは言論の自由を否定するのか」みたいに。
そういう人にどう言い返せばいいのかなあ…と前から考えていましたが、昨日ふと言論の自由を認めることと、相手の言い分を認めることは、ぜんぜん別次元の話で、両者は完全に独立して論ずることができることに思いが至りました。まあ、「俺が何を…」云々と、しれっと言う時点で相当おかしいわけで、あまり正面からぶつかっても益はない気もしますが、黙っているのも業腹なので、あえて理屈を述べてみたような次第です。

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