天文趣味を作った人、山本一清(6)2009年07月29日 23時10分55秒

どうも、話題をひっぱって恐縮です。
別に「山本一清伝」を書くつもりはないので、なるべく簡潔にと思います。

先日、山本一清のまとまった伝記は管見の範囲では見つからない云々と書きましたが、その後S.U氏より、日本天文学会の機関誌「天文月報」のバックナンバーに、彼の追悼記事が載っていることを教えていただきました(ありがとうございました)。ここには、生前のことがかなり詳しく載っています。

http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1959/index.htm

まず1959年2月号に訃報が載り、3月号には宮本正太郎、木辺成麿の両氏が、また4月号には池田哲郎、土居客郎の両氏が、それぞれ身近に接した立場から、山本一清の思い出を綴っています。各氏の文章を読んで、新たに知ったことが多々あったので、それらを交えて以下メモ書きします。

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山本一清は、京大の電気工学科に入った後、途中で物理学科に転科し、そこを大正2年(1913)に卒業後は、まさに順風満帆。気鋭の少壮学者として、華のある人生を歩んでいました。

大正3年(1914)には助手、4年(1915)には講師、そして7年(1918)には助教授に昇任。この間、1914年から16年までは帝国学士院嘱託という身分で、岩手県の水沢緯度観測所で緯度変化の観測的研究に従事、これが評価されて、大正14年(1925)には、理学博士の学位を得ています。(ちなみに、宮沢賢治が水沢緯度観測所をしばしば訪ねたのは、1920年以降だそうなので[※]、両者に直接の接点はないようです。)

(※)旧緯度観測所本館保存・活用を考える会 http://n398z.com/gaiyo.html

助教授時代の大正9年(1920)には天文同好会(現・東亜天文学会)を旗揚げ。翌年には『星座の親しみ』がベストセラー。大正11年(1922)から満2年間、欧米に滞在して、最新の宇宙物理学を修め、帰朝と同時に京大教授に就任。

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「こうして幸福に満ちた米国から英、独、仏、蘭の天文台めぐりを
終って、大正14年帰朝すると、既に提出中の学位論文はパスして
いるし、新城新蔵博士に代って教授のポストは待っている。全く
この世の春である。

 教授になってからの山本博士の活躍は更に目ざましかった。大正
9年にはじめた天文同好会は、全国すでに40ヵ所に余る支部の結成
があり、〔…〕正にアマチュア天文王国の教祖の如き観があった。

 〔…〕こうして山本教祖の動くところ、支部が出来、新天文台が建つ
といった具合で、秘かに日本のG.ヘールを夢みたのも無理はない。」 

(土居客郎「山本一清博士との35年間」、天文月報、1959年4月号)

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昭和に入ってからも彼の快進撃は続くのですが、その運命が暗転したのは、昭和12年6月のペルー日食の観測に成功し、ペルー国王から勲章まで授かって、意気揚々と帰国の途に就いたときのことでした。


(この項つづく)