ゆったりとした天文趣味の話(6)…ハギンス夫妻・前編2012年01月15日 22時50分22秒


(William Huggins(1824-1910)最晩年の写真。Wikipediaより)

今回は天文趣味どころか、超の付くぐらい一流の天文学者である、ウィリアム・ハギンス(1824-1910)と、その妻マーガレット(1848-1916)を取り上げます。
彼らを取り上げるわけは、その天文研究がいわば趣味の延長線上にあり、彼らのライフスタイル全体も、鷹揚な趣味的色彩を帯びていたからです。

以下にその様子を見ていきますが、今回もタネ本はブリュックの『Women in Early British and Irish Astronomy』です。

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ウィリアムは、服地を商う商家の一人息子として生まれ、「大富豪」とまではいきませんが、働かなくても十分食べていけるだけの資産を譲り受け、あとは悠々自適、心ゆくまで趣味の天文学にのめりこんで一生を送った人です(うらやましいですね)。

彼は正式な学校教育はほとんど受けたことがなく、もっぱら自宅で家庭教師について学びました。長ずるに及んで、当時はまだロンドンの郊外だったタルスヒル(Tulse Hill)に屋敷を構え、庭に個人天文台を建て、そこに口径20センチの屈折望遠鏡を据え付けると、本格的に天体観測に取り組み始めました。彼が30歳の頃のことです。(機材は後に45センチ反射と38センチ屈折にパワーアップ。)

(タルスヒルにあったハギンスの家と天文台。Brück前掲書より)

最初は漫然と惑星観測などをしていたのですが、1859年に突如開花した分光学と出会ったことで彼の人生は急転し、その分野の大家として、すぐに押しも押されもせぬ一流の天文学者となったのでした。恒星や星雲の組成を明らかにし、またスペクトルの偏移(ドップラー効果)に注目して、天体の視線速度の測定を試みたことは、その後の宇宙物理学の進展にとって、きわめて重要な意味があったことは周知の通りです。

マーガレットとの結婚は1876年。
51歳の花婿と27歳の花嫁という年の差カップルですが、結婚に向けて積極的だったのはマーガレットの方で、当時すでに熟練のアマチュア天文家だった彼女は、未来の夫の学問的業績を熱烈に崇拝しており、その尊敬の念がやがて愛情に転じたのだと言われます。(マーガレットを天文学に向かわせたきっかけこそ、少女時代にプレゼントされた、あのウォード夫人の『望遠鏡指南』だったとか。)

お堅いヴィクトリア時代後期の社会にあって、うらやましいほど伸びやかに生きた、このおしどり研究者の暮らしぶりと、マーガレットという魅力あふれる女性については、長くなるので次回にまわします。

(この項つづく)

ゆったりとした天文趣味の話(7)…ハギンス夫妻・後編2012年01月17日 06時06分42秒

ハギンス夫妻のライフスタイルを眺めてみます。

下の写真はハギンス夫人、マーガレットの肖像。すでに人生の円熟期に入った頃だと思いますが、書斎の蔵書をバックに、涼やかな目元が印象的な、とてもチャーミングな女性です。

(Margaret Huggins 1848-1916, Brück 前掲書より)

皆さんはこの写真を見て、どんな印象を持たれるでしょうか。
私はパッと見て、「白魔女」を連想しました。

「マーガレットその人は、とても面白くかつ愉快な人柄だった。彼女は強烈な個性の持ち主で、快活で断固としたところがあった。観測の邪魔にならぬよう、髪をショートにし、自分でデザインしたラファエル前派風の服をまとい、自分が描いた水彩画や木版画を家中に飾った。

彼女がアンティークの家具や美術品の購入・修繕をすれば、ウィリアムの方は古い天文機器の蒐集に励んだ。マーガレットは、「Nil nisi Caelesti Radio.(天空の光によらざれば何物もなし)」と刻まれた日時計が置かれた庭をせっせと手入れし、またピアノやオルガンを据え付けて、夫を口説いて、彼が若いころたしなんだヴァイオリンを再び手に取るように仕向けた。ふたりはいっしょに演奏し、友人や学者仲間とともに自宅で音楽の夕べを催した。
 (Brück 前掲書、p.169)

これだけ読むと、なんだかわがまま娘のようにも見えますが、マーガレットは別に享楽にうつつを抜かしていたわけではなく、夫のよき理解者・協力者として活躍し、この二人は「天文学の歴史において、最も成功したカップル」とも呼ばれます。そして、母親を失って長いこと気鬱に陥っていたウィリアムは、マーガレットとの結婚によって、大いに心が救われたのでした。

「有名なアメリカの望遠鏡製作者、ジョン・ブラッシャーは、茶事と天文台見学のためにタルスヒルを訪問した際、ハギンスが先着の別の天文関係者のことを、『天文学のことではなく、ヴァイオリンのことを話すために』やってきたと説明したことを書き留めている。

またハギンス夫妻が新婚まもない頃、妻とともに訪問したピアッジ・スミスは、この天文台付き住宅について、次のように書き残している。

『小さな家屋、狭い前庭と背後の広い庭。どの部屋も小さく、階段は低く狭いけれども、その全てが中世の調度に関する、途方もなく誇張された観念で満ちあふれていた。彗星を仰ぎ見るバイユー・タペストリーに登場する人物の群れを再現した、ドアの彩色ガラス。明るいプロミネンスを伴った太陽と固有のスペクトルを持った星雲たち。シダとシュロの温室は、狭いけれども実に見事だった』。

ステンドグラスのドアパネルは、おそらくマーガレットの示唆によって、ふたりが結婚後に嵌め込まれたものである。そのうち、ウィリアムの研究対象(太陽、彗星、スペクトル)を描いた1枚は、ウィリアム自身がデザインしたものだ。また2枚目は、バイユー・タペストリーの写しで、1066年の彗星(過去に出現したハレー彗星)を見上げるハロルド王を含む一群の人々が描かれている。3枚目にあたるステンドグラスの窓は、『天路歴程』から取った「キリスト者を称える輝けるもの」を描いており、ふたりの銀婚式を祝って1900年に付け加わった。

(参考画像: バイユー・タペストリーに描かれたハレー彗星。
出典:http://www.astronomynotes.com/solfluf/s7.htm

天文台のドームへの通路は、家屋の中を通じていた。床にはカーペットが敷かれ、誘導コイル、分光器、その他の実験器具を備えた実験スペースがあった。住居と研究の場の間には、何の境界もなかった。犬たちでさえも、この天文天国の一部だった。大きな黄色のマスティフ犬はケプラーと名付けられ、ウィリアムは彼が足し算をできると主張した。もう1頭の黒い小型のテリアは、ティコという名だった。〔…〕

物質的なレベルに関していえば、この夫婦の嗜好は簡素であり、ほとんどスパルタ的とさえいえた。ウィリアム自身はもっぱら菜食で、薄い紅茶かミルクコーヒーよりも強いものは飲まなかった。それは彼自身が選んだ生活スタイルだった。マーガレットは自分たちの生活がシンプルなのは、『主に私たちの社会的地位が貧しいから、そう、とても貧しいからなのです』と、好んで主張したが、もちろんこれは誇張である。」
 (Brück 前掲書、pp.169-170.)

お大尽のピアッジ・スミスは、ハギンス宅を評して「小さい、狭い」を連発していますが、ハギンス夫妻の生活はいわゆるアッパー・ミドルクラスのそれですから、確かにあふれるほどの富とは無縁だったでしょう。しかし、だからこそ、その住居は程良いスケールを持ち、自分たちの趣味を十二分に反映させることができたのだと思います。

ハギンス夫妻の場合、「ゆったりとした天文趣味」の「ゆったり感」は、博物趣味ではなく、主に芸術愛好癖や中世趣味に発しています。これもまた私の共感を大いに誘うところで、そこから更に、あるアメリカの奇怪な天文愛好家を連想するのですが、そのことはまた後日記事にしたいと思います。

いにしえの「驚異の部屋」には、珍奇な人工物や歴史的遺物も必須でしたから、その意味では、ここも立派な驚異の部屋。そこで営まれたなんとも心憎い生活!

残念なことに、現在のタルスヒルには、もはやハギンス旧居は残っていないそうです。
できることなら時をさかのぼり、ハギンス夫妻を訪ねて、その生活の様をつぶさに見てみたかったです。

作られた驚異の部屋2012年01月18日 21時28分02秒

今日は定時に職場を出ました。
すると、まだ空がほんのりと明るいのに気付きました。
一陽来復。

暦で確認すると、わが町では12月の1か月で、10分間日の入りが遅くなるだけですが、1月に入るとぐんぐん日脚が伸びて、1か月で30分(毎日1分ずつ)も日没が遅くなるそうです。

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さて、両国では力士の熱戦が続いていますが、「天文古玩」は相変わらず人のふんどしです。

↓は驚異の部屋をテーマにしたインスタレーションの連作に取り組んでいる、フランスのカミーユ・ランベルサード氏のブログ。


Mon Cabinet de Curiosités
 http://camille-renversade.blogspot.com/

その作品の基調を成すのは、ドラゴンとキメラ、海の怪物などをテーマとした「空想博物学」の世界であり、そこにスチームパンク的味付けを施し、また(そのようなものであれば当然のことながら)、ヴェルヌへのオマージュともなっているように見受けられます。

見ていくうちに、「あ、これは…」と既視感を覚える写真に出会いました。
それも道理で、その作品の一部は、以前machidoriさんの記事で拝見したことがあったのでした(その時には、写っている部屋そのものがアート作品であるとは思いませんでした)。

■イレネー・コーネリアス博士のキャビネ・ド・キュリオジテ:Mademoiselle Loulou*
 http://mllelou.blog10.fc2.com/blog-entry-794.html

こういう驚異の部屋のパスティーシュを、どこまで真面目に受け取っていいのか迷いますが、しかしこれはある意味、驚異の部屋の「エッセンス」を意図的に強調して提示したものだとも言え、驚異の部屋の魅力とは一体何なのか、それを考える有力な手掛かりとなりそうです(考えているだけで、まだ答はありません)。

驚異の部屋さまざま2012年01月19日 23時12分17秒

昨日の記事で、「こういう驚異の部屋のパスティーシュを、どこまで真面目に受け取るべきか?」というようなことを書きました。それについて考えてみます(ヒマですね)。

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いにしえの「元祖・驚異の部屋」は、「世界全体を我が物とする」ことを目的に、あらゆる珍物を蒐め、結果的に驚異の部屋ができあがったのだと思います。


(↑元祖・驚異の部屋を彷彿とさせる、ヤン・ブリューゲル(父)とルーベンスによる合作「五感の寓意」より「視覚の寓意」(部分)、1617)

ランベルサード氏の場合はプロセスがだいぶちがいます。
彼は最初から「驚異の部屋的な空間を作り、それを興がる」ことが目的で、いかにもそれっぽい物を、ときには自らデッチ上げることも厭わず― むしろそれを創作行為として積極的に行い― そこで結果的にできあがったものは、「驚異の部屋をテーマとしたアート作品」です。

したがって、最初から目指すものが違うので、「こんなもの、驚異の部屋のまがいものに過ぎん!」と指弾するのは的外れです。その「作品」は、もともと「現代における驚異の部屋」たることを目指しているわけではなく、どこまでも「作品」であり、アートの文脈でとらえるのが妥当です。そしてアートの文脈において、やはりこれは真面目に受け取るべきです。

アートとして成功しているかどうか、それが氏の「好奇心の部屋 Mon Cabinet de Curiosités」を評価する唯一のポイントなのでしょう。
(アート、アートと、なんとかの一つ覚えのように言っていますが、アートの正体も自明ではないので、それはまた別に考えないといけないですね。)

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私の場合は、アートを志向しているわけではありませんが、「驚異の部屋的な空間を作り、それを興がる」という目的においては似ています(より正確には、目指すのは「理科室的な空間」であり、「興がる」というよりは「古びた学問の佳趣を愛でる」という点に力点があります)。

ただ、世界を手中にするという発想にも、同時に惹かれるものがあって、ランベルサード氏ほど割り切って考えることができません。何となく中途半端です。結局、その妥協点が「理科室」であり、さらには「理科室‘風’」ということかなあ…と思います。

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ここで言葉を変えると、広義の驚異の部屋には、「元祖・驚異の部屋」、「アートとしての驚異の部屋」、「インテリアとしての驚異の部屋」…etc、多様な形があると言ってもいいでしょう。

驚異の部屋の魅力とは何ぞや?というのは、上に挙げた類型によっても異なるし、また同じ類型であっても、人によってかなり違うと思いますが、すべての驚異の部屋に共通する性格は、強烈なモノへのこだわり、オブジェ志向ということではないでしょうか。

モノにパワーを認めるという点で、これは一種の物神崇拝(フェティシズム)であり、アニミズム的態度なのだと思います。

(↑1598年にその淵源を持ち、18世紀前半に整備された、ハレ(ドイツ)に残る「人工物と自然物の部屋(Kunst- und Naturalienkammer)」。出典:Patrick Mauries(著)『Cabinets of Curiosities』、Thames & Hudson、2002)

雪のリック天文台(2)2012年01月20日 21時50分43秒

今日の関東は雪だったそうですね。
当地ではしょぼしょぼと一日雨でした。

最近気になっているテーマの1つが「雪の天文台」。
あまり深い理由はなくて、素朴に雪も天文台も好きなので、両方同時に楽しめればいっそう良い…という単純な動機です。
ただ、改めて考えると、雪も星の光もはるかな天上から降り注ぐという共通点がありますね。

写真は1910年頃のリック天文台の絵葉書。
標高1300メートル、カリフォルニアのハミルトン山頂に建てられた、壮麗なイタリア・ルネサンス様式の「天空の城」。1888年に、口径90cmという当時世界最大の屈折望遠鏡が据え付けられた、深宇宙探査の最前線です。

温暖なカリフォルニアでも、山の頂はさすがに雪が多く、リック天文台の絵葉書では、雪景色が1つの「型」となっていて、さまざまな写真が撮られました。

で、この絵葉書を見ていて思い出したことがあるので、そのことを書きます。

(この項つづく)

雪のリック天文台(3)2012年01月21日 19時20分33秒

暦の上で今日は大寒。
雪の天文台の話題をつづけます。

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ときに、昨日の記事のタイトルを改めました。
調べたら、自分は以前も「雪のリック天文台」という記事を書いていたので、昨日の記事は「雪のリック天文台(2)」に変更します。そして今日の記事は「その(3)」です。

その(1)に当たる、オリジナルの「雪のリック天文台」の記事は以下。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/12/24/1045824

で、昨日思い出したことというのは、まさにこの記事と関係しています。
以前と同じ絵葉書ですが、改めて画像を拡大できるように貼り直してみました。


この絵葉書には、1946年の消印がありますが、絵葉書自体はもう少し前に作られたものかもしれません。画面はすっかりセピア色になっています。

ここで注目したいのが、斜面についたソリのあと。
これは天文台スタッフの子供たちが遊んだあとかな?…と昔の記事では書きました。
おそらくは、そうなのでしょう。最近、リック天文台での人々の暮らしぶりを知り、それがこの1枚の絵葉書と、頭の中であざやかに結び付いた…というのが今日の話題です。

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昨年、マーシャ・バトゥーシャク著、長沢工・永山淳子訳、張宇宙の発見-ハッブルの影に消えた天文学者たち(地人書館、2011)という本を読みました。1920年代から30年代にかけて、ひと癖もふた癖もある天文学者たちが、たがいに覇を競いながら「膨張宇宙論」を確立するまでのドラマを、生き生きと描いた好著です。

そのドラマの舞台の1つがリック天文台で、本の中にはそこでの生活が、いろいろ顔を出します。

リック天文台は、ジェームズ・リックという富豪の寄付で、1870年代に建設が始まりました(リックの遺骸は、巨大望遠鏡の真下に埋葬され、今もそこに眠っています)。
同天文台には、天体観測ドームのほか、住居、作業場、事務所、図書館、学校などの施設が備わり、スタッフは家族とともに現地で暮らし、生活用品はふもとの町から毎日馬車で(後には自動車で)運び上げたそうです。
まさに、ここは1つの町であり、別名小さな科学の共和国とも呼ばれます。

1900年の直前の時点で、ここには上級天文学者が3人、助手の天文学者が3人、作業員たち、その家族、使用人等、総勢約50名の人が暮らしていました。人々は余暇には手作りのゴルフコースでクラブを振るい、雲のある晩にはパーティーを催し、互いを招待しました。子どもたちのための学校では、女性教師が毎年のように雇われた…というのは、彼女達は若い天文学者と結ばれ、退職することがしばしばだったからで、ロマンスにも事欠かない場でした。

ちなみに、1908年に稼働を始めた、同じカリフォルニアのウィルソン山天文台では、天文学者たちは「通い」で観測に当たりましたから、リックのような定住方式が、当時の標準だったわけではありません。やはり、リックは特異な環境だというべきでしょう。

リックには現在も20家族以上が暮らし、交番と郵便局も置かれ、科学の共和国は依然健在です。

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上のようなことを念頭に、あのソリのあとを見ると、子どもたちがこの科学の共和国で明るい歓声を上げてソリ遊びをしていた様子が、まざまざと目に浮かびます。

1世紀を超える「共和国」の歴史の中で、数多くの子供たちがここで暮らし、野生動物と触れ合い、遠くの尾根を眺め、そして満天の星を見上げたことでしょう。心も頭も柔らかな、そして身体中にエネルギーが満ちあふれた子供時代を、こういう場所で過ごせた人は幸いですね。

「雪の天文台」 総集編2012年01月22日 13時36分23秒

お知らせ: 「さあ、みんなでハーシェルの天体を見よう」の記事は、当初の掲載日である1月14日に移動しました。)

「最近気になるテーマ」として取り上げた、「雪の天文台」。
でも、考えてみたら、このテーマは昔から繰り返し取り上げています。ですから「最近になって再び気になりだしたテーマ」という方がより正確です。

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リックと並んで、カリフォルニアが誇る3人の巨人、ウィルソン山天文台パロマー山天文台についても、それぞれ雪の絵葉書を紹介したことがあります。

100年前、雪はあくまでも深く…ウィルソン山天文台
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/12/07/4745515


↑の画像は以前と同じもの。
それにしても、ものすごい雪ですね。雪の中で静かに眠る、これまた純白の天文ドームのたたずまいが素敵です。

雪のパロマー山天文台
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/12/11/2504133


↑の画像は、今回より大きなサイズでスキャンし直しました。

この絵葉書をめぐっては、さらにその続編の物語も書きました。
一人の地元の女性が語る、パロマー山天文台の思い出は、今読み返しても本当に心にしみじみとします。
パロマー物語…クリスマス・イヴに寄せて
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/12/24/2527345


さらに大西洋を越えて、イギリスのグリニッジ天文台の雪景色も既出。


↑は新たに色調を整えて、拡大機能付きで貼り直しました。
古い街中の雪景色には、大自然の雪景色とはまた違った、こまやかな情緒が感じられます。


さて、既出のものばかりではつまらないので、最後にリック天文台の雪景色を、もう1枚載せておきます。


↑は1900年ごろの古絵葉書。
木の間ごしに遠く見える天文台。巨大なドームが何と小さく見えることか。
画面を見ていると、広大な宇宙における人間の小ささ、いじらしさと、それでも歩みを止めない勁さを、ふと感じたりします。

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昨日の記事にいただいたコメントにもあるように、日本の天文台にも、雪にまつわる物語や愉しいエピソードは多々あることでしょう。

中でも戦後間もない1949年に、標高2876メートルの乗鞍岳・摩利支天山頂に設置された乗鞍コロナ観測所(正式開所は1950年)は、冬ともなれば全山雪で、そこに集った「漢」たちには、ずいぶん武勇談もあったことでしょう。

(乗鞍山頂での第一次越冬班。左から山本康郎、森下博三、野附誠夫、清水一郎、河野節夫の諸氏。『東京大学 東京天文台の百年1878-1978』より)

また暖国とはいえ、岡山天体物理観測所の1年を詩情豊かに描いた、石田五郎氏の名著『天文台日記』(1972)でも、正月早々雪のシーンが続いていたのを思い出します。

創業六年の老舗2012年01月23日 21時56分04秒

↑6歳児の例(7歳児かも)


そういえば、今日は「天文古玩」の6回目の誕生日でした。

丸6年といえば、小学校の全課程に相当し、あるいはブカブカの学ラン姿の中学生が、高校を卒業しようという期間ですから、決して短くはありません。実際、当時、中学生と小学生だった息子たちは、時の歩みにしたがって大学生と高校生になりました。

2006年は小泉政権最後の年で、アメリカでは当然ブッシュの時代。この1月の時点では、iPhoneもツイッターもまだこの世に存在せず、一方、この年の流行語大賞にランクインしたのがミクシィだったという、そんな時代です。

そんな頃から営々と駄文を書き連ねてきたのかと、今更ながら驚きです。

昨日の記事もそうですが、最近は何か1つ記事を書くにも、いちいち過去の記事を参照することが多くて、ブログとしてははっきり老境に入ったなあ…という自覚があります。老いの繰り言というやつですね。もちろんブログだけでなしに、書き手である自分自身だって、立派に老いを迎えつつあるわけで、何ともいやはやです。

これから先もブログを続けることは、単に続けるだけならば多分できるでしょうが、読んで面白いかどうかは、また別問題です。ただ、面白くはないにしても、こういう全く世の中の役に立たない記事を、ひたすら書き続けるという行為は、酔狂には違いなくて、その酔狂さゆえに続ける意味はある、のかもしれません。

それにお付き合いくださる方も、書き手に輪をかけて酔狂と言わざるを得ませんが、酔狂な者同士、今後もお茶(やお酒)を飲みながら、共に語らっていただければ、まことに嬉しいです。さあ、まずは一杯。

リプロ考2012年01月27日 22時39分27秒


机の脇に置かれている、リプロの天球儀。
球径18cmと、あまり場所をとらないのが利点。この品は、以前登場したミニ天球儀(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/12/558353)の上位バージョンで、図柄は同じ16世紀のメルカトル天球儀が元になっています。


こうして見ると、何となくもっともらしくも見えますが、近くで見るとけっこうずさんです。


球に貼り付けた星図(ゴア)の継ぎ目がずれて、アンドロメダ姫は袈裟斬りだし、王妃カシオペアは、哀れにも顔が途中で切れてしまっています。また、球の重心が偏っているせいで、好きな星座を見ようと思っても、球から手を離すと、くるっと回って、必ずしし座が上に来てしまいます。


細部はなかなか凝っているんですが、肝心の天球儀としての機能はいまひとつ。雰囲気作りの小道具というのがせいぜいです。まあ、これは同じリプロでも、ごく粗略な部類で、世の中にはもっとよく出来たリプロもたくさんあることでしょう。

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ところで、リプロの価値や効用とは何でしょう。

もちろん、リプロは貧者の味方で、懐に優しいという大きな利点があります。
本物志向とは相容れませんが、しかしそれも物によりけりで、本物が途方もない値段だったら、リーズナブルな価格で、それらしい雰囲気を味わえるリプロは、やはり心強い存在です。ただ、これはいわば後ろ向きの利点ですね。つまり、「本当は本物が欲しいけれど、しょうがないからリプロ」という。

しかし、リプロにはもっと積極的な価値もあります。
たとえば、相手がリプロなら、肩の力を抜いて、気楽に付き合うことができます。本物のアンティークだと、紫外線とか、湿気とか、いろいろ神経を使わないといけませんが、安価なリプロなら全然平気です。アンティークの天球儀を、小さな子どもと一緒にクルクル回すのは勇気が要りますが、リプロなら回し放題で、きっと親子のふれあいにもなるでしょう。(リプロでも高級な品になると、いくぶん微妙ですが。)

さらに、リプロの「見かけは古いがモノは新品」という点を、好ましく思う人もいるはずです。というのも、古いものには、やはり正体の知れない染みや、虫食いや、亡者の念などが付きまとうので、それを不安に思う人には、リプロがお勧めです。

とはいえ―。
こう書いていても、やっぱり心のどこかに「無理してる感」があるのは事実で、何とかならんかなあ…と思うのですが、私にとっては、最初に書いた「後ろ向きの利点」が依然最大のメリットだと認めざるを得ません。