特報!! 稲垣足穂は昭和11年7月6日、「星の文学」と題してラジオ出演を果たしていた! ― 2010年04月28日 20時15分56秒
S.U氏の直前のコメント(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/04/26/5043767#c5048739)に注目。そこからリンクされているのが下記のページ。
■稲垣足穂のラジオ出演
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueharas/others/taruhoradio.htm
ひえー!!!!!!
S.U氏の執念の探索の成果。
これって足穂研究者の方には既知のことでしょうか?それとも新知見?
筑摩の「稲垣足穂全集」所収の最新の年譜は未見ですが、少なくとも『タルホ事典』(潮出版)の高橋康雄氏編の年譜には出ていない情報です。
S.U氏のコメントは、私が以下のようなレス(下書き)を打っている間にいただいたものですが、100%己の不明を愧じます。全面訂正いたします。
しかし、以下に記した内容を考え合わせると、足穂の逼塞時代のイメージは大いに再考を要するものと思います。
■□ 以下、死せるコメント □■
私は、忠郷きょうだいの人物造形が、いかにもフィクション臭いので、会話に出てくるラジオの件もそうにちがいない…と単純に決めつけてしまったのですが、しかし、この2つの話題をごっちゃにすることはできませんね。現に、作品の舞台や設定は、部分的にせよ、足穂のリアルライフと重なっているわけですから、ラジオの件もそうであっていけない理由はありません。
とはいえ、抱影が昭和初年にラジオ出演した頃の状況(↓)を読むと、「明石でぶらぶらしているだけのアル中の人」だった足穂には、ちょっとそぐわない感がなくもありません。
「抱影の講演は話題が豊富多彩で評判がよくその後二百回も続けた。当時のラジオ出演といえば今日のテレビ出演よりも大変なことで世間的な知名度は一挙に上昇した。この頃の番組のPRは寄席のビラのように巷にはり出され、野尻抱影の名が錦城斎典山や歌沢×××や常磐津○○大夫の間に英語の岡倉由三郎と並んで印刷されていた。」(石田五郎、『野尻抱影』、p.169)
当時のプログラムを詳細に調べる手だてがあればいいのですが、どこから手を付ければいいのか、ちょっとツールが思い浮かびません。(NHKに直接聞くのが早い?)
** 以下、蛇足と考え削除 **
■稲垣足穂のラジオ出演
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueharas/others/taruhoradio.htm
ひえー!!!!!!
S.U氏の執念の探索の成果。
これって足穂研究者の方には既知のことでしょうか?それとも新知見?
筑摩の「稲垣足穂全集」所収の最新の年譜は未見ですが、少なくとも『タルホ事典』(潮出版)の高橋康雄氏編の年譜には出ていない情報です。
S.U氏のコメントは、私が以下のようなレス(下書き)を打っている間にいただいたものですが、100%己の不明を愧じます。全面訂正いたします。
しかし、以下に記した内容を考え合わせると、足穂の逼塞時代のイメージは大いに再考を要するものと思います。
■□ 以下、死せるコメント □■
私は、忠郷きょうだいの人物造形が、いかにもフィクション臭いので、会話に出てくるラジオの件もそうにちがいない…と単純に決めつけてしまったのですが、しかし、この2つの話題をごっちゃにすることはできませんね。現に、作品の舞台や設定は、部分的にせよ、足穂のリアルライフと重なっているわけですから、ラジオの件もそうであっていけない理由はありません。
とはいえ、抱影が昭和初年にラジオ出演した頃の状況(↓)を読むと、「明石でぶらぶらしているだけのアル中の人」だった足穂には、ちょっとそぐわない感がなくもありません。
「抱影の講演は話題が豊富多彩で評判がよくその後二百回も続けた。当時のラジオ出演といえば今日のテレビ出演よりも大変なことで世間的な知名度は一挙に上昇した。この頃の番組のPRは寄席のビラのように巷にはり出され、野尻抱影の名が錦城斎典山や歌沢×××や常磐津○○大夫の間に英語の岡倉由三郎と並んで印刷されていた。」(石田五郎、『野尻抱影』、p.169)
当時のプログラムを詳細に調べる手だてがあればいいのですが、どこから手を付ければいいのか、ちょっとツールが思い浮かびません。(NHKに直接聞くのが早い?)
** 以下、蛇足と考え削除 **
コメント
_ S.U ― 2010年04月28日 22時23分05秒
_ 玉青 ― 2010年04月29日 16時58分37秒
S.Uさんも既に確認済みのことでしょうが、念のため、図書館で筑摩の全集を見てきました。巻末にある萩原幸子氏編の年譜にも、やはり該当記事は見えませんでした。
このラジオ出演のエピソード、他の私小説的作品にも出てきてよさそうですが、出てこない(出てくるでしょうか?)のはなぜでしょう。出演したことを恥じているなら、「北落師門」を改稿する際、ばっさり切ってもよかったはずですが、それもしていません。足穂にとってはラジオ出演など些事であって、文字に記す必要をこれっぽっちも感じなかったが、「北落師門」だけは、そうする文学的必然性があって載せた…ということなのでしょうか。
現在、引き続き調査中とのことですので、結果をうかがうのを楽しみにしています。
★
さて、以下は私の無責任なまぜっ返しです。
「星の文学」という題名で、「婦人の時間」に話すとなれば、当然一般教養的な内容を期待されたのでしょう。あまり未来派的なことを話されても、茶の間でラジオを聞いているご婦人方にはチンプンカンプンでしょうから。だとすれば、野尻抱影こそ最適任のはずで、この件はいったんは抱影のところに話が行ったんじゃないでしょうか。ところが生憎7月6日は抱影に差し障りがあったか何かしたため、抱影自身が「そういえば、明石にこういう毛色の変わった男がいる」と、局に推挙した…というストーリーを考えてみました。足穂は当時すでに立派な抱影シンパで、ファン・レターめいた便りや自著を送っていたので、抱影は足穂の存在を知っていたはずです。ただし、足穂が重度のアル中とまでは知らなかった、というのがうまく作用して、瓢箪から駒式にこの話が実現したと考えれば、なんとなく辻褄は合います。また本来の足穂であれば、自分の任にあらずと固辞したのでしょうが、このときは明石を出奔する直前で、精神の平衡を欠いていたため、半ばやけっぱちで引き受けてしまったと。
…これは、まぜっ返しというよりは、新緑の影に見たファンタジーですね(笑)。
このラジオ出演のエピソード、他の私小説的作品にも出てきてよさそうですが、出てこない(出てくるでしょうか?)のはなぜでしょう。出演したことを恥じているなら、「北落師門」を改稿する際、ばっさり切ってもよかったはずですが、それもしていません。足穂にとってはラジオ出演など些事であって、文字に記す必要をこれっぽっちも感じなかったが、「北落師門」だけは、そうする文学的必然性があって載せた…ということなのでしょうか。
現在、引き続き調査中とのことですので、結果をうかがうのを楽しみにしています。
★
さて、以下は私の無責任なまぜっ返しです。
「星の文学」という題名で、「婦人の時間」に話すとなれば、当然一般教養的な内容を期待されたのでしょう。あまり未来派的なことを話されても、茶の間でラジオを聞いているご婦人方にはチンプンカンプンでしょうから。だとすれば、野尻抱影こそ最適任のはずで、この件はいったんは抱影のところに話が行ったんじゃないでしょうか。ところが生憎7月6日は抱影に差し障りがあったか何かしたため、抱影自身が「そういえば、明石にこういう毛色の変わった男がいる」と、局に推挙した…というストーリーを考えてみました。足穂は当時すでに立派な抱影シンパで、ファン・レターめいた便りや自著を送っていたので、抱影は足穂の存在を知っていたはずです。ただし、足穂が重度のアル中とまでは知らなかった、というのがうまく作用して、瓢箪から駒式にこの話が実現したと考えれば、なんとなく辻褄は合います。また本来の足穂であれば、自分の任にあらずと固辞したのでしょうが、このときは明石を出奔する直前で、精神の平衡を欠いていたため、半ばやけっぱちで引き受けてしまったと。
…これは、まぜっ返しというよりは、新緑の影に見たファンタジーですね(笑)。
_ S.U ― 2010年04月29日 18時36分30秒
玉青様、年譜の情報ありがとうございます。まだ見ておりませんでした。やはり、こりゃ新知見ですかね。
私がほかに調べたことといえば、
・「日本の文学」34(中央公論社)の松村実氏による年譜には記載がなく、おそらくこれは『タルホ事典』のと同じ。
・同日の読売新聞の番組欄は、基本的に朝日のと同じ(日本放送協会の出すものをそのまま載せているだけか)。
・「白昼見」第4節に、時に大阪方面に足を伸ばすことがありその時は若干の手持ちもあった、という意味の記述があり、これは放送局に行って旅費と謝礼をもらったことを指すのではないか。
といったところです。
>足穂にとってはラジオ出演など些事
このへんは私にも謎で、よくわかりません。相手が相手だけに推測は困難ですが、当時の足穂は現実の極貧界と精神の天上界を同時に走っていたので、その中間のラジオ出演はどうにも扱いにくかったのかもしれません。「北落師門」に取り上げたのは、例の忠郷きょうだいがフィクションめいていることと関係しているようにも感じます。
野尻抱影ルート説は夢がありますね。「星の文学」というタイトルをぽーんと掲げられる人といえば、当時は抱影くらいかもしれません。抱影がどのくらい足穂を買っていたかは知るよしもありませんが、ちょっと面白いことになりそうだネ、という先生のいたずら心から白羽の矢が立たないとも限りませんね。
私は、別のルートを考えています。それは、「婦人の時間」の通りの「女性ファンルート」です。足穂は、以前に婦人雑誌に作品を掲載していますし、モダンボーイの人気投票に選ばれたこともあるので、当時多少遠ざかっていたとしても、若奥さま方に人気の作家の一人としてリストされていたかもしれません。だとすると、佐藤春夫か谷崎潤一郎あたりに問い合わせがあって...ということであったかもしれません。
もう一つは、足穂の出身地で当時も姉が在住していた船場が大阪放送局(当時は上本町)とそう遠くないので、地元の誰かが心配して彼に仕事の世話を、というこれは多少夢のない説です。
私がほかに調べたことといえば、
・「日本の文学」34(中央公論社)の松村実氏による年譜には記載がなく、おそらくこれは『タルホ事典』のと同じ。
・同日の読売新聞の番組欄は、基本的に朝日のと同じ(日本放送協会の出すものをそのまま載せているだけか)。
・「白昼見」第4節に、時に大阪方面に足を伸ばすことがありその時は若干の手持ちもあった、という意味の記述があり、これは放送局に行って旅費と謝礼をもらったことを指すのではないか。
といったところです。
>足穂にとってはラジオ出演など些事
このへんは私にも謎で、よくわかりません。相手が相手だけに推測は困難ですが、当時の足穂は現実の極貧界と精神の天上界を同時に走っていたので、その中間のラジオ出演はどうにも扱いにくかったのかもしれません。「北落師門」に取り上げたのは、例の忠郷きょうだいがフィクションめいていることと関係しているようにも感じます。
野尻抱影ルート説は夢がありますね。「星の文学」というタイトルをぽーんと掲げられる人といえば、当時は抱影くらいかもしれません。抱影がどのくらい足穂を買っていたかは知るよしもありませんが、ちょっと面白いことになりそうだネ、という先生のいたずら心から白羽の矢が立たないとも限りませんね。
私は、別のルートを考えています。それは、「婦人の時間」の通りの「女性ファンルート」です。足穂は、以前に婦人雑誌に作品を掲載していますし、モダンボーイの人気投票に選ばれたこともあるので、当時多少遠ざかっていたとしても、若奥さま方に人気の作家の一人としてリストされていたかもしれません。だとすると、佐藤春夫か谷崎潤一郎あたりに問い合わせがあって...ということであったかもしれません。
もう一つは、足穂の出身地で当時も姉が在住していた船場が大阪放送局(当時は上本町)とそう遠くないので、地元の誰かが心配して彼に仕事の世話を、というこれは多少夢のない説です。
_ 玉青 ― 2010年04月30日 19時53分15秒
>女性ファンルート
ああ、なるほど!
ちょっとその辺の機微を察することができませんでした(笑)。
たしかにありそうですね。
足穂は晩年にいたるまでモテたそうですが、女性心理とはまことに…
ああ、なるほど!
ちょっとその辺の機微を察することができませんでした(笑)。
たしかにありそうですね。
足穂は晩年にいたるまでモテたそうですが、女性心理とはまことに…
_ S.U ― 2010年04月30日 21時39分24秒
>女性心理とはまことに…
!ったくね。
>もう一つの足穂ラジオ出演のツテのルートの候補を見つけました。これで当面ネタ切れになるかもしれませんからご報告しておきます。
「萩原朔太郎ルート」です。
・朔太郎は、昭和10年に、ラジオにレギュラー出演していた。
(NECOMACHI 朔太郎の生涯)
http://www.benten-marche.com/necomachi/shogai.htm
・足穂は、明石在住中に、手紙で朔太郎にニュートン・ハーシェル式反射望遠鏡の購入を勧めている。(これは昭和9~11年のことでなくてはならない。)
(齋藤百鬼の俳句閑日)
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/9f7739e5016aea3ebc865a78a7d81760
「『ロバチェフスキー空間』を旋りて」にも同様の記載あり
・足穂は、昭和11年に東京に戻ったとき、第一日目に朔太郎を訪問している。
(「『ロバチェフスキー空間』を旋りて」)
朔太郎と足穂の関係は、研究されている人はいるでしょうが、私は知りません。おそらく始めは、足穂が朔太郎の詩集を読んで共鳴をして手紙を書いたのだと思います。互いに情報を交換し合うような親しい交際があったのかもしれません。
!ったくね。
>もう一つの足穂ラジオ出演のツテのルートの候補を見つけました。これで当面ネタ切れになるかもしれませんからご報告しておきます。
「萩原朔太郎ルート」です。
・朔太郎は、昭和10年に、ラジオにレギュラー出演していた。
(NECOMACHI 朔太郎の生涯)
http://www.benten-marche.com/necomachi/shogai.htm
・足穂は、明石在住中に、手紙で朔太郎にニュートン・ハーシェル式反射望遠鏡の購入を勧めている。(これは昭和9~11年のことでなくてはならない。)
(齋藤百鬼の俳句閑日)
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/9f7739e5016aea3ebc865a78a7d81760
「『ロバチェフスキー空間』を旋りて」にも同様の記載あり
・足穂は、昭和11年に東京に戻ったとき、第一日目に朔太郎を訪問している。
(「『ロバチェフスキー空間』を旋りて」)
朔太郎と足穂の関係は、研究されている人はいるでしょうが、私は知りません。おそらく始めは、足穂が朔太郎の詩集を読んで共鳴をして手紙を書いたのだと思います。互いに情報を交換し合うような親しい交際があったのかもしれません。
_ 玉青 ― 2010年05月02日 20時22分38秒
こちらのコメントにはお返事がまだでした。
ご紹介のリンク先によれば、朔太郎の出演番組は大阪中央放送局制作だそうですから、抱影よりもいっそう縁が深そうですね。
それにしても、朔太郎はあまり望遠鏡に関心を示さなかったみたいですが、いかに詩人とはいえ、まあそれが普通の反応ですよね。むしろ足穂がチンマリした望遠鏡を空に向けていたことの方が、考えてみれば不思議な気がします。(イメージとしては観念先行の人なので、実観測とはあまり結びつかない印象がやっぱりあります。)
足穂の場合、実観測への本気具合はどの程度だったんでしょうかね。文章を読む限り、結構真剣に見ていたようにも思えますが、でも本当は観測行為よりも、望遠鏡という器械そのものに魅かれていたんじゃないか…という疑念も捨てきれません。たとえて言うなら、彼の望遠鏡体験は、7:3の割で、天文趣味の発露というよりも、器械趣味の延長という性格の方がまさっていた、ということはないでしょうか。
書いているうちに、ちょっと論旨がぼけてきました。
たぶん、天文趣味も器械趣味も、彼の中では渾然一体となっており、そんな区別には意味がないのかもしれません。。。。
ご紹介のリンク先によれば、朔太郎の出演番組は大阪中央放送局制作だそうですから、抱影よりもいっそう縁が深そうですね。
それにしても、朔太郎はあまり望遠鏡に関心を示さなかったみたいですが、いかに詩人とはいえ、まあそれが普通の反応ですよね。むしろ足穂がチンマリした望遠鏡を空に向けていたことの方が、考えてみれば不思議な気がします。(イメージとしては観念先行の人なので、実観測とはあまり結びつかない印象がやっぱりあります。)
足穂の場合、実観測への本気具合はどの程度だったんでしょうかね。文章を読む限り、結構真剣に見ていたようにも思えますが、でも本当は観測行為よりも、望遠鏡という器械そのものに魅かれていたんじゃないか…という疑念も捨てきれません。たとえて言うなら、彼の望遠鏡体験は、7:3の割で、天文趣味の発露というよりも、器械趣味の延長という性格の方がまさっていた、ということはないでしょうか。
書いているうちに、ちょっと論旨がぼけてきました。
たぶん、天文趣味も器械趣味も、彼の中では渾然一体となっており、そんな区別には意味がないのかもしれません。。。。
_ S.U ― 2010年05月03日 07時50分07秒
>足穂の場合、実観測への本気具合
タルホ先生の腹の内ははかりかねますが、小説に風景としての星座の描写が多いこと、望遠鏡が届いた時の感動を映写機のそれに喩えていることから、おっしゃるように考えて大きな間違いはないものと思います。
朔太郎ルートは昭和10年頃に集中が見られるので有望ではないかと思うのですが、そうなると、足穂が書いたものに頼るよりも、もっと広く日本昭和文壇史全般が相手になりそうです。取り付くシマが無い状況から一挙に対象が発散してしまいました。気の長いご支援をよろしくお願いいたします。
タルホ先生の腹の内ははかりかねますが、小説に風景としての星座の描写が多いこと、望遠鏡が届いた時の感動を映写機のそれに喩えていることから、おっしゃるように考えて大きな間違いはないものと思います。
朔太郎ルートは昭和10年頃に集中が見られるので有望ではないかと思うのですが、そうなると、足穂が書いたものに頼るよりも、もっと広く日本昭和文壇史全般が相手になりそうです。取り付くシマが無い状況から一挙に対象が発散してしまいました。気の長いご支援をよろしくお願いいたします。
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確かにテレビも民間放送も無かった当時にJOBK、JOAK同時放送に出演というのは、現代に喩えるものがないくらいすごいことなのでしょうね。
草下英明は『星の文学・美術』で、コメット・タルホは公転周期20年で、1922~28年、1946~48年、1968年が接近年としていますが、1936年に遠日点付近からラジオ放送をしていたというのは多少の捕らえ方の変化を持たらしそうに思います。