『天文学辞典』と昭和モダン(3)…天文趣味を作った人、山本一清2009年07月14日 00時37分55秒

(↑山本一清。出典:『天文学人名辞典』、恒星社)

『天文学辞典』の中身を見る前に、まず著者である山本一清その人について見ておこうと思います。

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日本の天文趣味を形作った人といえば、まず野尻抱影の名前が挙がります。しかし、抱影が世に出る直前、大正時代の終り頃には、抱影以上に名の知られた天文啓蒙家が幾人もおり、すでに天文趣味の普及はスタートを切っていました。

たとえば、「科学画報」誌の編集主任で、『星の世界』(1921)をはじめ多くの啓蒙書を出した原田三夫、 賢治にも影響を与えたと言われる『肉眼に見える星の研究』(1922)の著者・吉田源次郎、叙情味たっぷりの『星夜の巡礼』(1923)や『星のローマンス』(1925)で鳴らした古川龍城などなど。

そしてそれらの総元締めとも言えるのが山本一清でした。彼自身は1921年に『星座の親しみ』で大当たりをとっています。
<余談ですが、抱影が処女作『星座巡礼』(1925)を出したとき、山本一清が「天界」誌上で、「…大体において吉田氏の『肉眼に見える星の研究』の内容をそのまま、多少コンデンスしたような本…」と書評したので、抱影がだいぶむくれたという話があります(石田五郎、『野尻抱影』、126頁)。今となってみれば、上記の人たちは、抱影の露払いの役を果たしたとも言えるのですが、当時にあっては、むしろ抱影の方をエピゴーネンと見る向きもあったわけです。>

このように、1920年代になって急に一般向けの天文書(天文趣味書)が出てきた最大要因こそ、山本一清の精力的な活動であり、その具体化であった天文同好会(後の東亜天文学会)の創設(1920)でした。

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ここで改めて、山本一清(1889-1959)の略歴を見ておきます。
名前は「かずきよ」が本来の読みのようですが、長じてからは自他共に「イッセイ」と読み、欧文報告もIssei Yamamoto で行いました。したがって英語版のWikiの見出しもそうなっています。

略伝はウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%B8%80%E6%B8%85)にありますが、ここではより詳しい、『天文学人名辞典』から転記してみます。

(以下、長文にわたるので、記事を改めます。)

天文趣味を作った人、山本一清(2)2009年07月15日 22時42分19秒

(京都帝国大学・花山天文台。1930年頃の絵葉書。)


以下、中山茂(編)、『天文学人名事典』(恒星社厚生閣、昭和58)より。

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山本一清 やまもと いっせい
(1889~1959)

滋賀県生まれ。大正2年(1913)京都帝国大学物理学科卒業。水沢国際緯度観測所で観測に従事。測地学委員会の委嘱で重力偏差を測定、観測地点280個所に及んだ(1916~)。

アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスに滞在研究(1922~1925)。同14年(1925)論文“水沢における大気屈折の影響に対する特殊装置による緯度変化の同時観測”(英文)で理学博士、京都帝国大学教授(勅任教授)。昭和4年(1929)花山天文台長兼任。国際天文学連合黄道光委員会委員長(1935~1938)。同大学退官(1938)。

大正9年(1920)東亜天文学会を結成、雑誌「天界」を創刊し、会を主宰した。私費で山本天文台を創設し、生涯天文学の啓蒙普及につとめた。処女出版「星座の親しみ」をはじめ多数の啓蒙書がある。

月の裏側にあるクレーターのひとつに“ヤマモト”と命名されている。

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山本の生涯は、アカデミズムの中心にいた時代と、天文啓蒙家として一般大衆のオルグに没頭した時代とに大きく分かれます。
官学から在野へ―。同じく天文学関連の活動とはいえ、ライフスタイルという点では両者は非常に異なったものがあったはずです。山本は、なぜ自らそういう選択をしたのか…?

(この項つづく)

【付記】
JAXA(宇宙航空研究開発機構)のサイトに、かぐやの撮影したヤマモトクレーターの画像があります。
http://wms.selene.jaxa.jp/selene_viewer/jpn/observation_mission/tc/tc_031.html

天文趣味を作った人、山本一清(3)2009年07月18日 18時05分35秒

(↑山本一清、『星座の親しみ』序)

連休初日、またぞろ部屋の整理に追われ、大いに疲労しました。モノが届くたびにこんなありさまで……と愚痴りながらも、今回は心が軽いです。なぜか。ついに地球の裏側から本が届いたんですよ。いや、今回は長かった。ひょっとしたら、ラクダの隊商が中央アジア経由で運んできたのかもしれません。値段にすればそう高価なものではないにせよ、半分あきらめていただけに、とても嬉しいです。あとは○○と××が届けば…。

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さて、記事の続き。
前の記事のコメントにも書きましたが、実は私は山本一清という人のことをあまり知りません。知らずに書く、というのは無茶な話ですが、こうして積極的に話題にすることで、いろいろとご教示をいただければと考えています。

山本一清に関するまとまった伝記は管見の範囲ではなさそうです。
たぶん彼が創刊した雑誌「天界」のバックナンバーを見れば、その人物や感懐を直接示す文章が多々あるのでしょうが、残念ながら手元にないので、それは今後の課題です。
今、手元の資料から彼の天文趣味について想像してみます。

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山本一清は、1889年、つまり明治22年の生まれ。滋賀県田上(たなかみ)村の産で、生家は代々医家・儒者の家系でしたから、幼時から知的刺激には事欠かなかったでしょう。

彼がいつから星に興味を持つようになったのかは詳らかではありません。
彼は自著『星座の親しみ』(1921)の序で、

「…自分は若い頃、夏の天を仰いで蛇座と蛇遣ひ座の形を初めて知ったとき、一寸眼には何ものもないやうな無秩序の中に、実は一定の秩序が整って、天上無比の巨漢が、蜿々と横たはる大蛇を操る壮観を面と向って見た時は、思はず快哉を叫んだのを今でも覚えてゐる」

と書いています。30歳になるやならずの人間―この本の初稿は大正8年に完成しています―が言う「若い頃」ですから、これはおそらく10代のエピソードでしょう。

彼は同書の冒頭で、「こは自分の『天文詩集』第一巻である」と自己規定しています。
彼が10代の頃は「明星」が、そして20代の頃は「スバル」が一世を風靡した、浪漫主義・新浪漫主義の全盛期に当たります。この文芸2誌が、いずれも星にちなむ名前を持つのは実に象徴的。『星座の親しみ』を読むと、その余りにも甘やかな情調に驚くのですが、その星界への憧れは、基本的に青年期に接したロマン主義思潮と切り離すことはできないと思います。

彼は京大では電気工学科に入りましたから、最初は天文学者として身を立てようという気はなかったのでしょう。しかし、旧制三高時代にはすでにだいぶ進んだ天文趣味を持っていたようです。

例のハレー彗星騒動があったのは、彼が旧制高校の3年生だった、1910年(明治43)のことですが、このとき山本は、理科主任の森総之助教授から口径7.5センチの屈折望遠鏡を借りて、毎日観測に励みました。彼はいわば本格的なアマチュア天文家の<はしり>です。

ちなみに、後に「西の山本、東の神田」と呼ばれ、同じくアマチュア天文学の代表的指導者となった、東京天文台の神田茂(1894-1974)も、このとき若干16歳にして、専門家顔負けの詳細な観測記録をつけています。両人がハレー彗星から受けた刺激を思えば、この世紀の天文ショーが、日本のアマチュア天文学のその後の発展に及ぼした影響、実に大なるものがあったと言えましょう。(←古本を読んでいると、何となく言葉つきが古風になりますね)

(この項つづく)


【参考文献】
・日本アマチュア天文史編纂会(編)、『改訂版 日本アマチュア天文史』、恒星社厚生閣、1995
・石田五郎(著)、『野尻抱影』、リブロポート、1989
・山本一清(著)、『星座の親しみ』、警世社、大正11(第13版)

世界のヴンダーショップ(3)2009年07月19日 10時56分24秒

(↑公式サイトより)

昨日の記事が長かったので、ちょっと一息。

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見つけました、新たなヴンダーショップ。
というか、最近既出のお店です(http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/07/03/4411040)。
パリはデロールの近くにある「古書+骨董」の店、Librairie Alain Brieux。

今回、再度載せる理由は、flickrで店内の写真を大量に見て、強い衝撃を受けたためです。
前回、動画を眺めて「店内の雰囲気はよく分かる」と書いたのですが、実際にはあんなものではなくて、想像以上にヴンダーなお店でした。というわけで、ここで改めてヴンダーショップ第3号に登録です。

■flickr:Librairie Alain Brieux
http://www.flickr.com/photos/astropop/sets/72157615898247967/
 (右上にslide show ボタンがあります。)

デロールとは別の意味ですごい世界ですね。
天文系ももちろん充実していますが、それ以上に医療・解剖系の濃度が高めなので、苦手な方は用心して見てください。

同店には公式サイトもある由ですが、現在はまだ工事中の模様。

■Librairie Alain Brieux公式サイト
 http://www.alainbrieux.com/

パリ訪問の機会があるまでぜひ存続してほしいスポットです。


【長ーい付記】

うつけでした。
さきほど記事をアップしてから気付いたのですが、上の flickr のフォトストリームは、先日コメント欄で Tizit さんに教えていただいた、解剖メインの博物系ブログ Morbid Anatomy (http://morbidanatomy.blogspot.com/)のブログ主、Joanna Ebenstein 氏の手になるものでした。微妙なシンクロニシティの作用ですね。

Ebenstein 氏のフォトコレクションは、まさにその手の驚異に惹かれる人にとっては、「解剖趣味のカリフォルニア」とも呼ぶべき豊饒の地でしょう。

★Morbid Anatomy (on FLICKR)
http://www.flickr.com/photos/astropop/collections/72157601772904023/

その手のものが苦手な方(私もどちらかといえばそうです)にも↓はお勧めです。

★Teylers Museum, Haarlem
 http://www.flickr.com/photos/astropop/sets/72157612836663492/

18世紀末に創設された、オランダ最古の博物館、Teylers Museum の館内写真集。
味のあるケースやガラスドームに収められた、古い科学機器、鉱物、化石のたたずまいがとても美しい。

なんだか、人のふんどしを何枚も重ね履きして相撲を取ってしまいましたが、近頃ちょっと驚いたことでした。

月のパズル2009年07月20日 07時40分22秒

山本一清博士のことを書いていて、ふと気付いたのは、今年が博士の生誕120年、そして没後50年にあたることです。これはやっぱり何かに引かれたのかも…。
一部を除けば、博士は完全に「過去の人」だと思いますが、日本の天文趣味の立役者を、世界天文年の今、こうして文字に書き記すことの意味は、決して小さくないはず。

ありがたいことに、貴重な資料をお知らせいただいた方(S.Uさん)もいらっしゃいますので、博士のことはもうしばらく記事を続けます。

―とはいえ。今日・明日は時事ネタで、アポロと日食の話題です。

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40年前の今日、人類が月に着陸。
もっとも、日本時間だと21日の出来事ですから、明日がちょうど40周年ですね。
ウィキペディアによれば、アポロ11号は21日の早朝に月に着陸、それから6時間半かけて船外に出る準備をして、正午前にアームストロング船長があの歴史的第一歩を記したそうです。

1969年の7月21日は月曜日でした。もっとも子供たちは夏休みだから、曜日は関係ないですね。私はまだ小学校に上がる前でしたが、その時の記憶はまったくありません。いや、何となく大人たちが騒いでいたような気もするのですが、その後くりかえし当時の映像がメディアに流れたせいで、生の体験と、疑似記憶との区別が付きません。空はカッと晴れていた印象がありますが、気象データベースによれば、当時住んでいた東京は一日中曇っていたそうなので、やっぱり記憶が飛んでいるようです。

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写真はアポロ計画が進んでいた、1965年頃に売り出された月のパズル(月の直径は約29センチ)。

■MOON MAP PUZZLE
 Selchow & Rigther Company (N.Y.)

地球儀メーカーのRand McNally社が出していた月面図を元に作られた製品です。それだけに表現がとてもリアル。中央部が黒くなっていますが、これは上弦の月と下弦の月の写真を組み合わせて元図が作られているせいです。今回写真を撮るために、初めて箱から出したのですが、やってみて、自分がいかに月の地形に疎いかを知りました。見ているようで、案外見ていないものです。

「いかにも60年代」のパッケージがいいですね。
この宇宙飛行士は、手に小型ロケットのようなものを持ち、くわっと目を見開いて、一心に月を目指しているのですが、でもこのままだと確実に命を落としますね。アストロノーツは、それぐらい勇敢で命知らずなんだ…と言いたいのでしょうか。

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さて、アポロ40年。あれから月のパズルはどこまで解けたのでしょうか。
1つ解ければまた1つと、「新製品」も続々生まれているようで、なかなか人類は退屈する暇がないようで、大いに結構なことです。

夜の帽子…日食によせて2009年07月21日 05時53分36秒

(↑Asa Smith, SMITH’S ILLUSTRATED ASTRONOMY, Cady & Burgess, New York, 1849 より)

チェット・レイモ(著)、『夜の魂-天文学逍遥』(工作舎、1988)。
この本から引用するのは何度目でしょうか。

「夜は形を持っており、それは円錐形である。」

この文を読んだときの、新鮮な驚きは今も忘れません。
ここでいう「夜」とは、地球が作るいわゆる「本影」のことですが、夜とは地球の影にほかならない―ということは、これを読むまで、まるで意識しませんでした。

「地球は夜を魔法使いの帽子のように被っている。〔…〕帽子の縁
は地球の眉の上にぴったりフィットしている。それは地球から86
万マイル先の向点まで延びている。影のつくる魔法使いの帽子は、
縁の直径より100倍もの高さを持っている。それは地球から月の
軌道までの3倍の距離にまで達する。」

高い高い、夜のピラミッド!

「こうした薄暗い帽子の下でオポッサムが、狐が、洗熊が、大きな
眼の物の怪が、地蛍(つちぼたる)が、鬼火や狐火が徘徊する。
薄暗い帽子の下で、亡霊や幽鬼が、夢魔(インクブス)や女夢魔
(スクブス)が、悪鬼や妖女(バンシー)、そして闇の魔王が跳梁
跋扈する。天文学者も背の高い椅子によじ登って、望遠鏡をその
長い帽子に向け、存在の連鎖を一段一段、一階一階、一列一列と、
幸運の島を越え、理想郷を過ぎて、シオンの向こう、星と銀河が
手招きし、クェーサーがセント・エルモの火のように脅かしている
あの岸辺なき海まで追い求めていくのだ。」


地球ばかりではありません。太陽系にある全ての物体は、太陽を中心に、大小様々な「夜」を背負って虚空に浮かんでいます。「太陽は、ちょうど海胆〔うに〕が黒いとげを突き立てているように、さまざまな夜を逆立てている」。

地球の「夜」にくらべて、ずっと小さな月の「夜」。
そのとんがり帽子は、ちょうど地球から月までの距離に等しい高さを持っています。
帽子の先っちょが地球を撫でるとき、その小さな接点に居合わせた人は、天上からさかしまに下りてくる月世界の夜を目にしているのです。

そして、明日、部分日食を目にする多くの人たちは、夜のとばりの周縁部、月の黄昏の中をゆっくりと移動していくわけです。

  ★

天体が太陽をすっぽりと覆い隠す皆既日食。
考えてみれば、我々は毎晩それを経験している?
真夜中に大地を蹴って跳び上がれば、確かに太陽、地球、自分はまっすぐ連なって宇宙空間に浮かんでいる…


(※引用はすべて上掲書第15章「夜の形」より)

天文趣味を作った人、山本一清(4)2009年07月23日 22時36分43秒

昨日は、雲を通して、ほんの一瞬、三日月形をしたミルク色の太陽が見えました。
今回は、網膜の損傷がほぼゼロでしたので、安心して次の2035年を待ちたいと思います。

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さて、山本一清の話を続けます。

彼の主著『星座の親しみ』は、要するに季節をおって綴られた、西洋星座の解説なのですが、その書名には、星界を1つの厳格な国家体系とみなす東洋(=中国で生まれた)天文学に対して、西洋天文学が用いる星座は、その成り立ちからしてより情緒的・芸術的であり、一層親しみやすいという山本の主張が込められています。

「此の如き〔東洋〕天文学は、所詮、貴族的哲学体系であって、一般俗衆の近づくべからざる厳格さを備へてゐた。ここからは、星の親しみは生れ得ない〔この1文傍点〕。/之れに反して、西洋に起った天文学は徹頭徹尾、人の情操に訴へる趣きの芸術であり、又は宗教であった。」(『星座の親しみ』11頁)

そして彼は、以後の記述で、徹底的に情に訴えるのです。情に溺れると言ってもいいでしょう。以下の一文など、果たして山本は自分の拠って立つ足場をどう捉えていたのか、不思議の感すら起させます。

「世に芸術家を以って任ずる人よ、君が真にギリシャ魂と相触れんことを思はゞ、先づ天を仰いで星座の美を味はへ、そこにホメロスが囁やき、ヘシオッドが語るを聞くであらう。更にまた世の星学者よ、君の学が、ただ船をやり、年時を数へ、乃至、星辰の物質構造を論ずる以外、更に広く深き人生の自然と相交渉する境地を知らんがため、翻って星座とその形を見よ、そこには冷やかなる理性の世界の代りに、熱と力の満ちた情の世界が、君のハートに迫るを発見するであらう。」(同14‐15頁)


彼はこうした詩心を抱いたまま天文学者となり、そこで一流の成果を挙げたわけですが、彼が本当にやりたかった仕事とは、結局こうした「情の天文学」だったのではないでしょうか。

後述するように、彼がアカデミズムの世界を離れた経緯には、非常に世俗的なゴタゴタが絡んでいたらしいのですが、その根本因は、畢竟こうした資質や肌合いの違いだったと思えます。(逆に、デビュー当時の野尻抱影が山本に反発を感じたのは、「こと文学ならば、自分の方が専門家だ」という自負があったからでは…?)

(この項つづく)

天文趣味を作った人、山本一清(5)2009年07月25日 22時57分06秒

(↑原本は染みが目立つので、少し画像をいじりました)

山本一清は、2007年に出たばかりの、『天文学大事典』(地人書館)でも項目立てされていることを、同社のN氏に教えていただきました。とすると、「月のパズル」のところで彼を「過去の人」呼ばわりしたのは修正が必要です。確かに(物理的には)過去の人に違いないにせよ、彼はいまでも依然重要な立ち位置にいることを再認識しました。

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前回、彼の詩心ということを書きました。

『星座の親しみ』は、文中でテニスン(アルフレッド、1809-1892)、エマーソン(ラルフ・ウォルド、1803-1882)、それにインドのタゴール(1861-1941)などの詩句を引用しています。タゴールも含め、彼らはいずれもロマン主義(ロマン派)の文脈にある人たちなので、山本の嗜好がどこにあったか、よく分かります。

感情のほとばしり、遠い世界への夢見がちな憧れ、そうしたものが彼の天文趣味にはついて回りました。もちろん直接には、前にも書いたように「明星」や「スバル」に代表される、日本的浪漫主義の洗礼を青年期に受けたことが、その趣味の涵養に大きく影響しているのでしょう。

言葉は悪いのですが、山本の天文趣味を彩るのは、一種の「星菫趣味」であり、これが大正期の青年にも大いにアピールして、その後の日本の天文趣味が育っていきました。現在においても、日本の天文趣味に、過度の抒情性や文学的色合いがあるとすれば、それは上のような出自が影響していると思います。

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ただし、そうした「星菫趣味」は山本の専売特許ではなく、明治の後期にはアカデミックな天文学の内にも根を張っていたことが、上の冊子からうかがえます。

■日本天文学会(編)『恒星解説 全』
 三省堂、明治43年(1910)

日本天文学会が結成されて2年後に出た冊子です。
先に出た「新撰恒星図」(http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/21/3533856)の付録として編まれたもの、と前書にはあります。(この冊子の内容は、機会があれば書いてみたいと思います。)

その後、アカデミックな天文学はこうした色彩を急速に振り捨て、硬派な面を強めていきました。出発点こそ山本と近かったものの、進む方向は正反対であったと言うべきでしょう。

(この項つづく)

活動せるデロール2009年07月26日 22時59分47秒

休日はまた懲りずに、博物系の画像を求めてウロウロ。
で、ふとYouTubeにデロールの動画がアップされているのを発見。
これはデロール好きの人にとっても、デロールの正体を今一つつかみかねている人にとっても朗報です。

■Insolite : Les secrets du taxidermiste ?
http://www.youtube.com/watch?v=CtkrcWOEMp4&feature=related

どうやら火事で焼ける前の姿のようですが、あのデロールの空間が、リアルに体感されます(それにしてもデロールの店員さん、昆虫標本の棚を開ける手つきが、何だかちょっと乱暴じゃないですかね)。

右側の関連動画にも、フラゴナールやら、興味をひく動画がいろいろあるので、併せてご覧ください。

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ときに、書いていて自分でも矛盾しているというか、ワガママだと思うんですが、どうもYouTubeでデロールを見るという安易さが、デロールの陰影を少なからず損なっているような気が、一方ではします。
こうしてネットで紹介されているうちに、イメージとしてすっかり消費され、「デロール?ああ、あれね」という風になるのは、何だか寂しいような…。

たぶん私が探し求めているのは、デロールに仮託した「永遠に到達できないどこか」なのでしょう。ですから、動画を見るばかりでなく、たとえ現実のデロールを訪れたとしても、何か満たされないものが、きっと残るでしょう。

メーテルリンク風に、「その‘どこか’というのは、結局‘ここ’じゃないのかね」と言われれば、そんな気もしますが、でも、違うような気もします。