カテゴリー縦覧…天文古書編:ニコル著『宇宙の構造』(1) ― 2015年02月11日 18時06分56秒
ブログのネタはなかなか尽きませんが、どうも普通に書いていると、日常的な小ネタに偏りがちなので、少し意識的に話題に枠をはめたほうがいいのではないかと思いました。で、一番単純な方法として、左欄に挙げられた記事のカテゴリーを順番に取り上げて、これまで登場の機会がなかった品に光を当ててみようと思います。
まずは普通に天文古書から。
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■John Pringle Nichol
The Architecture of the Heavens.『宇宙の構造』
Hippolyte Bailliere (London), 1851 (第9版)
八折版、300p.
The Architecture of the Heavens.『宇宙の構造』
Hippolyte Bailliere (London), 1851 (第9版)
八折版、300p.
ジョン・プリングル・二コル(1804-1859)は、スコットランドの教育家・天文家。天文家としての彼は、研究者であるよりも、まず啓発家であり、その方面で同時代に影響力がありました。
この『The Architecture of the Heavens』もその一冊です。(なお、彼には、『Views of the Architecture of the Heavens』という似た題名の著作もありますが、内容も体裁も異なるので、購入の際には注意が必要です。)
この本は、その図版をぜひご覧いただきたいのですが、その前に、装丁の魅力にも触れておきます。
見事な空押しの革表紙に三方金、鮮やかなマーブルの見返しという造本は、相当凝っています。
これほど装丁にお金をかけたのは、この本が著者ニコルから親しく献呈されたものだからと想像します(献じられた人の名前は William Beaumont Esq. と読めますが、何者かは不明)。
その後、何人もの人の手を経て、最後はダラムの古書店から私の元にやってきました。
この著作は19世紀最大の巨人望遠鏡を建造した、アイルランドのロス伯爵(ウィリアム・パーソンズ)の夫人に捧げられています。ロス伯爵も当時はまだ存命ですが、あえて伯爵夫人に捧げたのは、それが往時の紳士のたしなみなのでしょう。
(この項つづく)
カテゴリー縦覧…天文古書編:ニコル著『宇宙の構造』(2) ― 2015年02月13日 06時06分53秒
このニコルの本は、いろいろな意味で過渡期の産物です。
1つには、この時期、写真術は既に産声を上げていましたが、それが天文学に応用されるには、まだ間がありました。
(David H. Davison, Impressions of an Irish Countess, 1989より。上は1862年、下は1858年頃、いずれもロス伯爵夫人撮影)
そのことに関して象徴的なのは、前回も登場したロス伯爵夫人は、当時の物差しからすると、きわめて科学的な女性で、写真術を趣味にしていたことです。
彼女は、夫であるロス伯爵の建造した、鏡径1.8メートルの巨大望遠鏡(1847年運用開始)の姿を、鮮明な写真に収めていますが、しかし望遠鏡で見たものを、乾板上に結像させることはできませんでした(そもそもロス伯爵の望遠鏡は、星を追尾できないので、長時間露光できません)。
したがって、ニコルの本の挿絵は、すべて肉眼と手によるスケッチに基づくものです。
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2つめは、写真術と並んで天文学に革命をもたらした「分光学」も、まだ誕生前夜だったことです(それが呱々の声を上げたのは1860年代のことです)。
そして、この2つの時代的制約から、ニコルは星雲の性質について、ある予断を持って臨むことになりました。それは、星雲はすべて星の大集団であり、望遠鏡の性能がさらに向上すれば、それは疑問の余地なく立証されると考えたことです。
これはロス伯爵の大望遠鏡によって、それまで個々の星像に分離不能だった星雲・星団のいくつかが、実際に分離できたことに幻惑された結果です。そしてまた、分光学がガス星雲の正体を明らかにする以前だったので、ニコルがそう思いこんだのも、無理からぬことです。
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そして3つめは、写真術の製版術への応用も、まだまだ先の出来事だったことです。
ニコルの本の挿絵は当然すべて版画です。しかも、流行の石版画(リトグラフ)を使わず、技法的にはすべて鋼版画(steel engraving)に拠っています。
今回、このニコルの本を取り上げた最大の理由は、その驚くべき図版の表現力です。
鋼版画は主にイギリスで好まれた技法で、銅版画に比べ、ややもすると微妙なニュアンスに欠けると言われますが、ニコルの本を見ると、決してそんなことはありません。というよりも、本書の図版は、鋼版の表現力を最高度に引き出した例だと思います。
鋼版画は主にイギリスで好まれた技法で、銅版画に比べ、ややもすると微妙なニュアンスに欠けると言われますが、ニコルの本を見ると、決してそんなことはありません。というよりも、本書の図版は、鋼版の表現力を最高度に引き出した例だと思います。
そして、上で述べたように、そこに描かれているのは、人間の目と手が捉えた像であり、客観性を重んじつつも、必然的に人の想像力が影響しているので、画面に一種の幻想味が漂っており、えもいわれぬ魅力を放っています。
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前置きが長くなりましたが、ニコルの本の挿絵を見てみます。
ロス伯爵が、その形状から「かに星雲」と命名した、おうし座のM1。
今では超新星残骸と分かっていますが、ロス伯爵は、これを星の大集団と考えました。
今では超新星残骸と分かっていますが、ロス伯爵は、これを星の大集団と考えました。
図の拡大。天の川のように点綴する微光星のイメージが、挿絵にも影響しています。
当時の人は、ここに宇宙の深淵にひそむ、不気味な怪物めいた存在を感じ取ったことでしょう。
それにしても、このぼうっと煙るような星雲の表現のなんと繊細なことか。
当時の人は、ここに宇宙の深淵にひそむ、不気味な怪物めいた存在を感じ取ったことでしょう。
それにしても、このぼうっと煙るような星雲の表現のなんと繊細なことか。
りょうけん座の子持ち銀河、M51。
これもロス伯爵の代表的業績である、星雲の渦状構造の発見を伝える図です。
これもロス伯爵の代表的業績である、星雲の渦状構造の発見を伝える図です。
見開きいっぱいに描かれた天界の驚異。
当時の人の驚きが、そのまま画面に固定された感があります。
当時の人の驚きが、そのまま画面に固定された感があります。

Hollow nebula(空洞星雲)とは、うつろな球殻状の星雲ということで、現在で言うところの惑星状星雲です(もっとも、歴史的には惑星状星雲の方が昔からある呼び方で、ニコルは、対象の性質をより正しく表現するものとして、空洞星雲の名をあえて使っています)。
個々の星雲が何を指しているかは、本文中にも説明がないので不明ですが、不思議な生き物めいた画像が、人々の宇宙への好奇心を激しく掻きたてたことでしょう。
これぞ極め付けに繊細な図。表題は「天の川の一部のスケッチ」。
文句なしに美しい絵です。そして星空のロマンにあふれています。
そもそも、どうやってスケッチしたのか、そして、それをどうやって版に起こしたのか、人間の手わざの凄味を改めて感じる図です。
文句なしに美しい絵です。そして星空のロマンにあふれています。
そもそも、どうやってスケッチしたのか、そして、それをどうやって版に起こしたのか、人間の手わざの凄味を改めて感じる図です。
ニコルの本には、こうした珠玉の挿絵が、全部で22葉収められています。
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天体写真が、人々の宇宙イメージの形成にどれだけ寄与したかは、想像以上のものがありますが、19世紀の第2四半期には、すでにこうした一連の図像表現によって、新たな宇宙イメージが、人々の脳裏に萌していたことは、指摘しておいてよいと思います。
カテゴリー縦覧…天文台編:エジンバラの丘へ ― 2015年02月14日 10時09分34秒
非正規雇用は現代の「水呑み」であり、正社員は「本百姓」である。
そして、為政者は絶えず百姓を「生かさぬよう、殺さぬよう」搾り取ろうと
虎視眈眈としている。
そして、為政者は絶えず百姓を「生かさぬよう、殺さぬよう」搾り取ろうと
虎視眈眈としている。
…そう考えれば、眼前の事態の8割がたは正しく記述していると確信します。
本当に嘆かわしい世の中です。こんなことでは、いずれ大塩の乱が起こることは必定であり、為政者はよくよく心せよと、諫言申し上げたい。
本当に嘆かわしい世の中です。こんなことでは、いずれ大塩の乱が起こることは必定であり、為政者はよくよく心せよと、諫言申し上げたい。
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小さな惑星の、小さな島でも紛擾が絶えないのを遺憾としますが、こうべをちょっと挙げさえすれば、そこには無限の世界が広がっており、人間の存在など無に等しいことは、それこそ赤ん坊でも分かります。しかし、どうも人間は頭が重たいせいか、ついつい下を向きがちで、すると眼前の地べたに線を引いて、陣取り合戦などを始めたくなるものです。いっそ、人間の目が頭頂部についていれば良かったのに…と思います。
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そんな人間に代わって、頭頂部の目玉で始終空を眺めているのが、天文ドーム。
グリニッジの方は、イギリス最大の28インチ屈折望遠鏡を収めた「大赤道儀棟」(Great Equatorial Building, 1857完成)で、ずいぶん前に登場済みです。
リンク先の文中、リリパット・レーンのラインナップには、グリニッジ天文台関連の建物が、3つエントリーしていることを書きました。即ち、この大赤道儀棟と、同天文台のシンボルであるフラムスティード・ハウス(1675完成)、そして現在はプラネタリウムになっている南棟(South Building, 1899完成)です。それらも、いずれ登場の機会があるでしょうが、今日の主役はエジンバラ王立天文台。
【2015.4.20付記】
本日、コメント欄で、リリパット・レーンが売り出したグリニッジ関連の商品には、もう1つ「Altazimuth Pavilion(経緯儀棟、1899)」という、愛らしい建物に材を取ったものがあり、そのラインナップは都合4つであることを教えていただきました。ここに訂正しておきます。(植草様、どうもありがとうございました)
本日、コメント欄で、リリパット・レーンが売り出したグリニッジ関連の商品には、もう1つ「Altazimuth Pavilion(経緯儀棟、1899)」という、愛らしい建物に材を取ったものがあり、そのラインナップは都合4つであることを教えていただきました。ここに訂正しておきます。(植草様、どうもありがとうございました)
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このモデルは、2009年の世界天文年に合わせて発売されました。
エジンバラ王立天文台は、もともと市の中心部に立っていたのですが、財政難による閉鎖問題が持ち上がり、その後、熱心な天文家でもあった第26代クロウフォード伯爵の支援により存続が決定し、それを機により優れた観測拠点とするべく現在地に移転しました。現在も残る建物は1892年から工事が始まり、1896年から正式に運用が始まりました。
上の写真だと、右手前に木が茂っていて、そこで建物が終わっていますが、実際の天文台はこの先にも建物が続いており、上空から見るとT字型をしています。
(グーグルマップより。右上に写っているのが東塔)
天文台のドームといえばお椀型の半球ドームが思い浮かびますが、こういう円柱(ドラム形)ドームを採用した例もあります。もちろん、この場合もドームは回転します。
実物は銅製で、その美しい緑青の色合いを、モデルはよく再現しています。
実物は銅製で、その美しい緑青の色合いを、モデルはよく再現しています。
以下、建物の細部。
実際の建物は、もう少し黒っぽい外観をしており、モデルの方はいくぶんお伽チックですが、全体の構造はよく表現されています。
建物の設計者は王室工部局(Her Majesty’s Board of Works)所属のW. Wybrow Robertson という人。移転前の天文台がギリシャ神殿風だったのに対抗するためか、新天文台はローマ趣味の濃い、イタリア風建築になっています。
ちなみに、東塔の高さは75フィート(23m)、差し渡しは40フィート(12m)あります。
それと、肝心の機材はグラブ製15インチ屈折望遠鏡で、その外観は下のページで見ることができます(架台は交換されているかもしれません)。
それと、肝心の機材はグラブ製15インチ屈折望遠鏡で、その外観は下のページで見ることができます(架台は交換されているかもしれません)。
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この手のひらサイズの天文台は、取得費用も低廉で、維持費もかかりません。移転も簡単です。観測機能に若干難のあるのが玉に瑕ですが、世の中に完璧ということはないので、これで良しとしましょう。
リリパット・レーンは、本当にいい仕事をしました。
カテゴリー縦覧…星図編:古星図を眺める(1) ― 2015年02月15日 09時54分21秒
数年前、ドイツの業者から18世紀の星図を買いました。
格別何か特徴がある品、というわけでもないんですが、「数万円以下で流通している古星図って、たとえばどんなんだろう?」と考えたときに、参考になる品だと思うので、載せておきます。
格別何か特徴がある品、というわけでもないんですが、「数万円以下で流通している古星図って、たとえばどんなんだろう?」と考えたときに、参考になる品だと思うので、載せておきます。
買ったのはバイエルンの古地図・古版画の専門業者で、丁寧にマット装した状態で送ってくれました。昔から実店舗も構えており、一通りの見識を備えた店と見受けました。
マットの下の本体がこれです。
シートサイズは34.2×24.5cm、印面サイズは27×20cm。
シートサイズは34.2×24.5cm、印面サイズは27×20cm。
タイトルは「Le Globe Celeste en deux plans Hemispheres(2つの半球図によって表現された天球)」。購入時の説明文には、「作者不明。美しいオリジナル手彩色を施したフランス製銅版画。1750年頃」とありましたが、今やドイツの専門業者が分からないことも、東海の小島の磯で素人がカシャカシャやれば分かる時代です。
で、たちどころに分かったのは、この星図が『Atlas Nouveau Portatif』(1756)という、パリで出版された地図集から切り取った一葉であり、作者は18世紀の地図メーカー、ジョルジュ・ルイ・ル・ルージュ(Georges Louis Le Rouge) だということ。
いったんそうと分かれば、あとは古星図の参考書、Warnerの『The Sky Explored』に当たればよく、ル・ルージュのこの星図には、さらに元図があって、フィリップ・ド・ラ・イール(Philippe De La Hire、1640-1718)が1705年に出版した星図がそれであること、ド・ラ・イールは、さらに17世紀初頭のヨハン・バイエルの星図を参考にしたことを、Warner は教えてくれます。
(なお、Warnerの本では、ル・ルージュは生年未詳、1778年没となっていましたが、フランス国立図書館のデータベースに当たったら、1712年にハノーヴァーで生まれ、1790年代没とありました。おそらく後者が正しいと思います。)
なんだかゴチャゴチャしているので、下に再整理。
■標題: Le Globe Celeste en deux plans Hemispheres.
作者: Georges Louis Le Rouge (1712-179?)
出所: Atlas Nouveau Portatif, 1756 (Paris)
作者: Georges Louis Le Rouge (1712-179?)
出所: Atlas Nouveau Portatif, 1756 (Paris)
なお、表面はきれいですが、舞台裏はこんな↓感じで、
本からベリベリ引き剥がしたことが一目瞭然。引き剥がしたのが件の業者であれば、星図の出所も分かったはずですから、たぶんもっと昔の人の仕業にちがいありませんが、貴重な古星図でも、ときに手荒い扱いを受けていることに胸が痛みます(それに間接的に手を貸しているのが、他ならぬ私ですから、なおさらです)。
(星図の細部は次回に。この項つづく)
カテゴリー縦覧…星図編:古星図を眺める(2) ― 2015年02月16日 20時26分10秒
フランスのル・ルージュの星図のつづき。
(北天の一部)
(南天の一部)
小さな画面に居並ぶ、小さな小さな星座たち。
あどけない表情が何ともかわいらしい。
まあ、昨日の記事に出てきた、星図研究家のWarnerに言わせれば、「A crude copy of the maps of La Hire.(ラ・イール星図の粗野なコピー)」ということになるのですが、オリジナルのラ・イール版は、直径が42cmもある大判星図なのに対し、このル・ルージュ版は、周囲の目盛り環を入れても直径10.5cmしかないのですから、表現が簡略化されるのは止むを得ません。
ちなみに、半球図を描く場合、現代の星図だと、天の赤道を基準に北天・南天を分割しますが、古い星図では黄道(1年かけて太陽が天球上を一周する通り道)を基準にする場合が多く、この星図もそうなっています。
★
昨日、この星図に格別特徴はないと書きました。
でも、周囲を飾る豆天体図に目を凝らすと、これがなかなか興味深いです。いずれも直径が2.5~2.8cmと、ちょうど500円玉ぐらいの大きさしかないんですが、たとえば太陽の図を見ると、「キルヒャー神父による太陽」と書かれています。
これぞ先日(2月3日)登場した、アタナシウス・キルヒャーの恐るべき太陽図(↓)の約100年後の子孫なのでした。
(画像再掲)
何だかほとんど原形をとどめていないし、Warner に言わせれば、これまた「粗野」の一言で片付けられてしまうでしょうが、何て言うんですか、やっぱり「かわいい」としか言いようのない味わいがあります。
そして月はといえば…
ガリレオのスケッチを元にした、これまた不思議な絵になっていますし、
木星(↑)や土星(↓)は、パリ天文台の初代台長・ジョヴァンニ・カッシーニが公にした図が元絵になっています。
正確さはさておき、こういう歴史的図像―ル・ルージュ当時から見ても、100年ないし150年も昔の絵ですから、相当古めかしい絵です―を切り貼りして並べて見せることは、当時の一般の嗜好に叶うものであり、さらに250年経った今これを眺めると、1枚の版画の内に、天文学の歩みが一層ギュッと凝縮して感じられます。
「画面全体にあふれる愛らしさ」と並んで、そうした「歴史絵巻」的面白さも、この星図の見所だと思います。
2月の星空…ビッグ・ベン前から ― 2015年02月17日 06時31分09秒
星図の話題の続き。
月ごとに、子ども向き星図を順に眺めるシリーズの第2回目です。
月ごとに、子ども向き星図を順に眺めるシリーズの第2回目です。
以下、星図のキャプション。
「2月の星空。イギリスの少年少女の皆さんは、この絵をたよりに、2月なかばから3月なかばまでの星空を学ぶことができます。皆さんは今、ウェストミンスターの議会前広場で、南を向いて立っているところです。正面には議事堂とウェストミンスター寺院が見えます。細い線は、各星座の星を結んだものです。オリオン座大星雲のように、下線を引いた天体は、ぜひ望遠鏡でご覧なさい。あるいはもし望遠鏡がなければ、壁にしっかりと固定した、双眼鏡やオペラグラスでもいいでしょう。」
ロンドンの中心部。空を目指してそびえるゴシック様式の建物群。
その上に広がる2月の空。オリオンは徐々に西に傾き、東から顔をのぞかせた獅子が、春の訪れの近いことを告げています。
★
ところで、「1月の星空」の項(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/01/07/7533287)で書いたように、この星図は、『The Book of Knowledge』というイギリスの児童用百科事典の最終巻に収録されたものです。そして、星図の前後は、「THROUGH THE YEAR with The Book of Knowledge(『ザ・ブック・オブ・ナリッジ』でたどる一年)」という一連の記事になっています。
つまり、「今日は何の日?」という切り口で、百科事典の内容をおさらいしてみましょう…というわけです。
で、2月はといえば、「1564年2月15日、イタリアの数学者・天文学者、ガリレオ・ガリレイ誕生。第3巻498頁。また第1巻280頁「天文学」、第4巻66頁「重力」、第6巻114頁「振り子」の項も参照」…というようなことが、写真入りで紹介されています。一昨日は彼の451回目の誕生日でした。
ちなみに本日、2月17日は、モンゴル王のティムールが没した日であり(1405年)、1564年にはミケランジェロが、1856年には詩人のハイネが亡くなり、1923年にはカーナヴォン伯(ジョージ・ハーバート)が、ツタンカーメン王の墓をあばいた日だと書かれています。
カテゴリー縦覧…天球儀・地球儀編:汚れた地球儀との対話 ― 2015年02月18日 19時25分27秒
先日から始まった、ブログ・カテゴリーに沿って記事を書くという試み。
「天文古書」、「天文台」、「星図」…ときて、今日は「天球儀・地球儀」編です。
(そして、このあとは「プラネタリウム」、「天文機器」、「星座早見」…と続く予定です。)
「天文古書」、「天文台」、「星図」…ときて、今日は「天球儀・地球儀」編です。
(そして、このあとは「プラネタリウム」、「天文機器」、「星座早見」…と続く予定です。)
とにもかくにも、こういう風に機械的にテーマを設定されない限り、きっとこの場に登場しなかっただろうというモノがあります。たとえば下の地球儀。
本体は30センチ径、総高は60センチ近くありますから、かなり大きなものです。
一見して「汚い地球儀だなあ」と思われるのではないでしょうか。
私もやっぱり「汚い地球儀だなあ」と思います。
私もやっぱり「汚い地球儀だなあ」と思います。
今では表面のニスが黄変して、下の地図が見えにくくなってるし、しかも、ところどころ擦れ落ちて、白くまだらになっています。全体に傷みが激しくて、大きいだけに処置に困りますが、それでもあえて購入したのは、当時は(これを買ったのは9年前です)、今ほど古い地球儀が流通しておらず、結構珍しかったからです。
メーカーは大阪の奥村越山堂。
創業は不明ですが、戦前から戦後まで一貫して地球儀を製造していた会社です。
右側の凡例欄に「委任統治」の文字が見えるのが、その時代を物語っています。
創業は不明ですが、戦前から戦後まで一貫して地球儀を製造していた会社です。
右側の凡例欄に「委任統治」の文字が見えるのが、その時代を物語っています。
この地球儀は、第1次大戦後に、ドイツの植民地だった南洋諸島が日本の委任統治領になり(1922)、大陸に満州が成立(1932)する前、ちょうど大正から昭和へと時代が移り替わる頃に作られました。
中国では清王朝が滅亡し(1912)、中華民国の時代です。
後発の「列強」たる日本は、明治の後半から膨張主義政策を加速し、台湾割譲(1895)、さらに朝鮮併合(1910)と領土拡張を図った結果、地球儀に赤塗りの部分が増えたことが歴然としています。その上さらに欧州大戦によって焼け太りして、南洋進出を果たした格好ですが、その果てに何があったかはご存知の通り。
かじ取りの難しい時代だったことは確かでしょう。
そして、これも人類がこれまで数限りなく繰り返してきた、興亡の歴史の1ページに過ぎない…と、言ってしまえば、そのとおりです。
ただ、国家という装置が、その構成員の意志を超えて自律性を獲得したとき、いかなる結果をもたらすかという教訓は、この煤けた地球儀からも読み取れます。
ただ、国家という装置が、その構成員の意志を超えて自律性を獲得したとき、いかなる結果をもたらすかという教訓は、この煤けた地球儀からも読み取れます。
★
…と感慨にふけりつつ、やっぱりもうちょっと状態のいいものが欲しかったなあと思います。
そして、「地球儀はどうもせせこましくていけない、眺めるなら天球儀がいいね」と思って、天球儀を見たら、やっぱりそこにもせせこましく星座境界線が書き込まれていて、人間はどうも境界をはっきりさせないと落ち着けない生き物であることを再認識しました。
まあ、脳の視覚野には、対象の輪郭線を自動的に抽出する仕組みが備わっているそうですから、外界を認識するとは、半ば境界を認識することであり、ヒトが在りもしない境界線を引いてまで境界にこだわるのも、生物として然らしむるところなのかもしれません。
カテゴリー縦覧…プラネタリウム編:ドームを照らす赤い星 ― 2015年02月19日 20時07分11秒
昨日の汚れた地球儀が、まだ真新しかった時代。
(西野嘉章、『装釘考』(玄風社)より)
こういう本を見ると、当時の空気がスッと分かるような気がします。
もちろん「気がする」だけで、本当のことは分かりませんが、鉄の匂い、油の匂い、巨大な蒸気ハンマーの音、汚れた前掛け、筋張った手…なんかが、一塊のイメージとなって浮かんできます。ロシアがソ連となり、国内では「主義者」が気勢を上げ、特高と対峙していた頃です。
あの頃のロシアでは、ロシア・アヴァンギャルドと称される芸術運動が展開し、上の本にあふれるデザイン感覚も、その影響圏で生まれたものと思います。
そのロシア・アヴァンギャルドの一分派が「ロシア構成主義」。
建築分野でいうと、鉄・コンクリート・ガラスなどの工業素材を多用した、抽象的・幾何学的造形性を前面に出した様式で、いかにも「新しい時代」を意識した、旧来の建築様式(それはブルジョア趣味として排撃されました)と激しく対立するものでした。
建築分野でいうと、鉄・コンクリート・ガラスなどの工業素材を多用した、抽象的・幾何学的造形性を前面に出した様式で、いかにも「新しい時代」を意識した、旧来の建築様式(それはブルジョア趣味として排撃されました)と激しく対立するものでした。
その一例として挙げられるのが、1929年に完成したモスクワ・プラネタリウムです。
歴史的プラネタリウムは数々あれど、モスクワのそれは、ヨーロッパ随一の規模を誇ると同時に、革命後ロシアに芽吹いた芸術運動の落とし子という点に特徴があります。設計者は、若きミハイル・バルシュ(1904-1976)と、ミハイル・シニャフスキー(1895-?)。
歴史的プラネタリウムは数々あれど、モスクワのそれは、ヨーロッパ随一の規模を誇ると同時に、革命後ロシアに芽吹いた芸術運動の落とし子という点に特徴があります。設計者は、若きミハイル・バルシュ(1904-1976)と、ミハイル・シニャフスキー(1895-?)。
その独特のシルエットは、かつて「タルホの匣(はこ)」と称して仕組んだ、シガレットケースにも登場しました。
(タルホの匣については、http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/03/31/を参照)
そしてまた、この小さなピンバッジにも、その雄姿は浮き彫りになっています。
(隣は宇宙モノのピンバッジをしまってある、ドロップ缶)
星たちが瞬く空の下、銀色の大ドームが、絞った弓のように盛り上がり、
そのはるか向こうを、赤い流星が真一文字に翔んでゆく…
そのはるか向こうを、赤い流星が真一文字に翔んでゆく…
何だかやたらにカッコいい構図です。
★
昨年、85歳を迎えたプラネタリウムは今も現役です。
ただし、その間常に幸福だったわけではなく、2011年に再オープンするまで、17年間も閉鎖されていたという事実を、今回初めて知りました。再開にあたっては躯体をジャッキ・アップして、建物2層分を増築するという離れ業をやってのけたそうです。
ただし、その間常に幸福だったわけではなく、2011年に再オープンするまで、17年間も閉鎖されていたという事実を、今回初めて知りました。再開にあたっては躯体をジャッキ・アップして、建物2層分を増築するという離れ業をやってのけたそうです。
■公式サイト(英語): http://www.planetarium-moscow.ru/en/
カテゴリー縦覧…天文機器編:明治の日時計 ― 2015年02月21日 14時56分30秒
天体の運行により時を知る―。
これは天文学のいちばん根っこにあることなので、日時計も立派な天文アイテムです。で、日時計を探しているうちに、明治時代の日時計を見つけました。
これは天文学のいちばん根っこにあることなので、日時計も立派な天文アイテムです。で、日時計を探しているうちに、明治時代の日時計を見つけました。
写真はその外箱と文庫本を並べてみたところ。
箱のサイズは7.8cm×4.0cmと、ごく小さなものです。
箱のサイズは7.8cm×4.0cmと、ごく小さなものです。
箱を開けると、中にちんまりと本体が収まっています
オベリスクのような真鍮版をエイヤっと持ち上げると…
カチンと金具にはまって直立し、これが使用時の姿です。
表面には、
「明治二十三年十一月十二日ヨリ十ヶ年/第一〇〇四号」
「専売特許/発明人」 「備中高梁町/林善助」
の文字。日付は、特許取得日とその有効期間でしょう。
「明治二十三年十一月十二日ヨリ十ヶ年/第一〇〇四号」
「専売特許/発明人」 「備中高梁町/林善助」
の文字。日付は、特許取得日とその有効期間でしょう。
本当はオベリスクの頂部から、
下辺の切込みまで、ピンと糸が張られて、その影で時刻を読むはずですが、今では糸は失われています。
★
この非常に明治チックなデザインの日時計については、すでに先達の詳しい紹介記事があるので、ここではその学恩を蒙りつつ、簡単な紹介にとどめます。
リンク先のページによれば、備中高梁(たかはし)住の林善助は、各種時計修繕を業とし、大阪にも店を出していた、民間の発明家だったようです。
この日時計が「正午計」とネーミングされたわけは、これが「正午を知る」目的に特化したものだったからで、「逓信省(=後の郵政省)御用品」とあるように、郵便局での使用を想定した製品でした。
なぜ郵便局かといえば、近代郵便制度の普及には、各地の郵便局が同じ時刻を指し示す時計を持つことが、とても重要だったからです。
たとえばイギリスでも事情は同じことで、19世紀の初めまでは、英国でも各地方がそれぞれ固有の時間(リヴァプール時間とか、ホリーヘッド時間とか)を採用していて、それで何ら不都合はなかったのですが、近代化の中で困る場面が出てきました。
それが鉄道と郵便です。いずれも全国的なネットワークが形成されると、乗り替えや継ぎ立ての中継点で、双方の時計が違う時刻を示していると、甚だ効率が悪かったからです。ロンドンのグリニッジ標準時が、イギリス全土に普及したのは、鉄道と郵便のおかげです(※)。
tictocさんの記事には、正午計の取り扱い説明書が引用されています。それによれば、まず正確に南北を定めた正午計によって、太陽の南中を知り、説明書の付表によって、日本標準時たる明石との経度差を補正し、正確な時刻を得る…という原理のようです。(本来であれば、太陽の南中時刻は正確に正午ではなく、季節によってズレがあるので、その補正も必要ですが、その点については説明書中に言及がありません。)
百年以上の歳月を経た「時の番人」の表情。
太陽は変らず天を廻っているようですが、世紀を追うごとに、地球の自転周期は千分の1秒単位でジリジリ遅くなりつつあるそうです。
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(※)デレク・ハウス(著)、橋爪若子(訳)、『グリニッジ・タイム:世界の時間の始点をめぐる物語』(東洋書林、2007)
カテゴリー縦覧…星座早見編:古くて大きな星座早見 ― 2015年02月22日 09時32分43秒
改めて周囲を見回すと、これまで星座早見をずいぶん買いました。
別に星座早見コレクターではないので、系統立ったコレクションには全然なっていませんが、それでも数が増えた理由ははっきりしています。すなわち、値ごろ感があるために、ついつい買ってしまうからです。
別に星座早見コレクターではないので、系統立ったコレクションには全然なっていませんが、それでも数が増えた理由ははっきりしています。すなわち、値ごろ感があるために、ついつい買ってしまうからです。
いくら天文アンティークが好きと言っても、オーラリーや天球儀をバンバン買うわけにはいきません。でも、20世紀初頭ぐらいの星座早見だったら、数千円~1万円台ぐらいで出物があるので、資力が乏しくても何とか買えます(ヤフオクだと、尋常でない価格を付けている業者を見受けますが、本来の相場はそんなにするものではないです)。もちろん、それだってバンバン買えるわけではないですが、時おり買うだけでも、長年のうちには自ずと溜まってきます。
そして、資力が乏しいからこその出会いもあります。
例えば上の星座早見は、アメリカのWhitall社のものです。1850年代と、時代も相当あるし、大きさは約40cm角と、最近の早見盤よりずっと大きくて、堂々としています。星座早見としては、まず珍品の部類と言っていいでしょう。
(Carole Stott, CELESTIAL CHARTS: Antique Maps of the Heavens. 1995)
ただし、↑同じ品が本に載っていますが(※)、パッと見分かるように、私が買ったものには、星の見える範囲を示す「窓」のパーツがありません。それがなければ、星座早見として用をなさないので、これは致命的な欠陥です。その上、全体が煤けており、周囲のいたみもはげしく、保存状態は非常に悪いです。
筋金入りのコレクターは、こういう傷物にあまり手を出さないので、それをためらわずに買えたのは、私が貧しいからこそです。それに、「窓」がないおかげで、星図全体を一望できるのは、考えてみたら長所かもしれません。
なんだか自慢話にしては、すいぶん貧乏くさい自慢ですが、この珍品を3千円ちょっとで落札したのは、我ながら上出来で、多少の慢心は自ら許したいです。貧者に幸あれ。
(手彩色の星座絵が優しい印象)
★
ところで、この星座早見を見て、気づいたことがあります。
英語の「planisphere」は、今ではもっぱら星座早見の意味ですが、語源的には「平らな天球」、すなわち「天球図」の意味で、フランス語では今でもそうです。それが星座早見の意味に転じたのは、おそらく「movable planisphere」(可動天球図)の略から来ているのでしょう。
となると、星座早見の本質はやっぱり「星図」であって、星座を探すデバイスとしての機能は、あくまでも付随的なもの…と言えるかもしれません。
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(※) Stottの本に載っているホイットオールの星座早見と、手元のそれをじっくり比べたら、出版社の住所表示が違っていました。本に載っている方は、「Duane Street 108番地」であるのに対し、手持ちの品は、同じニューヨークでも「Walker Street 46番地」と印刷されており、今検索したら、前者は1856年、後者は1857~1858年の住所だそうです。まあ若干時間のずれはありますが、モノとしては同じと言ってもいいでしょう。
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