タルホの匣…第10夜、パテェの雄鶏2010年04月13日 21時14分29秒

この「タルホの匣」シリーズも第10夜を迎えました。
シリーズは次回、第11夜で終わる予定です。

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足穂に『パテェの赤い雄鶏を求めて』という回想記があります。
大阪で過ごした幼児期から、明石での小学生時代(一部は中学初年)までの思い出を記したもので、<パテェの赤い雄鶏>は、彼のいわば原点を象徴する存在となっています(以下、引用元はすべて上記作品)。

「パテェの雄鶏」とは、フランスのパテェ映画社のシンボルマーク。
子供のころから映画好きだった足穂にとって、このマークは幼時の記憶と分かちがたく結びついていました。

「両側の送り孔(パーフォレーション)が奇妙な並木路を
連想させるフィルムを凝視して、もしそこに、蔓草模様の
枠に囲まれて、仏国パテェ会社の赤い雄鶏が二羽向い
合っていることが認められでもしようものなら、私の心は
天外に飛ぶのだった。」

“映画好き”とは言っても、足穂少年の場合、その興味の在り様がはなはだ特異でした。というのも、子供時代の彼を陶然とさせたのは、作品そのものよりも、むしろシネマの光であり、匂いだったからです。

「私は活動写真も、その外題よりは機械の方に惹かれて
いた。フィルムではタイトルの横文字が並んでいる部分が
好きだった。いっそう好もしいのは、乳白色の生フィルム
だったのかもしれない。」
「化学と機械学とがいっしょになった、しかし自動車の
場合とは全く別なハイカラーな匂い」
「アセテートの匂い、スプロケットの鋼鉄の歯車の匂い、
エナメル塗料の匂い、光学機械特有の冷たいレンズの匂い」

こうしたものに足穂は夢中になっていました。
何となく分かるような気もします。が、やっぱり変わった子供です。

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写真はパテェの雄鶏を鋳込んだメダル(直径は約4.5センチ)。

雄鶏の上には「パテェ・コンテスト」、裏面には「パテーベビー連盟/東京日日新聞社」と書かれています。パテーベビーというのは、パテェ社が売り出した、小型の手回し式9.5ミリ映写機およびカメラの名称で、日本でも大正末年に輸入され、かなり売れたもののようです。したがって、このメダルは、パテーベビーのユーザー団体が、新聞社の肝入りで開催した映画コンテストに関連したものではないかと思います。

■参考:小型映画技術年表(by 映画保存協会)
http://www.filmpres.org/smallgauge/sg_sasagawa1/4

タルホの匣…第11夜、シークレット・アイテム2010年04月14日 20時07分34秒

一千一夜よりは短いですが、一千一秒よりはぐっと長い十一夜をもって、タルホの匣をめぐる記事はおわりです。

最後に残ったのは、この小瓶。


これぞこの匣の心臓であり、精神であり、魂と呼ぶべきもの。
問題はビンではなく、その中身です。

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2月10日に書いた神戸旅行の記事で、自分はこんなことを書いています。

「足穂は、自分は文学碑など大嫌いだが、どうしてもというなら、トアロードのつきあたりに…と言ったらしいですが、ここがその場所。それにちなんで、私はここである儀式をしました(そのことはまた後日)。」

今日がその「後日」。
種を明かせば、私は旧トアホテル前で、盛んに小瓶を振りまわして、「トアロードの空気」を採取していたのでした。いささか芝居がかっていて、多少の気恥ずかしさはありましたが、でもトアロードの空気なくして、タルホの匣の完成はあり得ないと考え(本当はそんなことないでしょうけれど)、精いっぱいビンに空気を詰め込んだのです。

青年足穂が闊歩し、老年になってからも繰り返し追憶の対象となった場所。
足穂作品の重要な舞台ともなった、その場の空気を切り取って、タルホの匣に収めることにしました。

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では、最後に全員そろって記念撮影をしてから、「おうち」に帰ってもらうことにしましょう。


どうです?自画自賛ですが、なかなか素敵な「住人」たちではありませんか。

モノ思いにふける春2010年04月16日 21時05分55秒

今日は湯船につかりながら、外の雨の音を長いこと聴いていました。

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このサイトは、「理科趣味の雅致をモノにこだわって嘆賞する」ことをうたっているのですが、モノにこだわることの有効性ということが、最近ふと頭をよぎります。

たとえば私の部屋を見回すと、当然いろいろなモノが目に飛び込んできます。
そこに置かれた様々なモノたちを眺めていると、何だか頼もしいようでもあり、痛ましいようでもあります。彼らは、あたかも結界を守る護符のごとく、また仏国土を護持する四天王のごとく、この空間に<平板な日常>が侵入するのと必死に戦っているように見えます。彼らの聖性(もしそう言ってよければ)が失われたとき、この部屋は、そして私の心は、まことに荒涼寂寞としたありさまになることでしょう。

古書にしろ、古物にしろ、彼らの力は一体いつまで、そしてどこまで有効なのでしょうか?
そもそも、私の「ヴンダーカンマーごっこ」の果てに、はたして真のヴンダーはあるのでしょうか?

濁った頭で考えているので、なんだか問いもクリアではありません。

あるいは、事態はまったく逆で、今の私は単なるモノの虜囚であり、モノの力が失われる時、私はようやくリアルな世界に還れるのでしょうか?

こういうドヨーンとした話題を書くのは、年度替りで疲れているせいかもしれません。
ゴールデン・ウィークにゆっくり休めば、たぶん回復するはず。

(↑Photo by TOKOさま。昨春の撮影。許可を得て画像を一部加工。)


秘密の人体模型、あるいは人体模型の秘密2010年04月17日 19時53分42秒

ゆうべ、かすてんさんが目を留められた“人体ねえさん”(→昨日のコメント参照)。
この1/2スケールの人体模型は、商品名を「エディーJr」といい、わが家ではエディさんと呼んでいます。


エディさんともずいぶん長い付き合いで、今の奥さんと結婚した年か、その翌年ぐらいに買ったので、奥さんと同じぐらいの古馴染みになるわけです。
ある日、嫉妬に狂った奥さんがエディさんを粉々に打ち砕いて…というような事件が起きていたら夢野久作的で面白いんですが、そんなこともなくこれまで円満にやってきました。

エディさんは、窓際に置かれていた時期が長かったせいで、気付いた時には赤い塗料がすっかり退色して、筋肉が真っ白になっていました。改めてみると不思議な感じです。

人体模型なので、こんな風にパカッと頭部が外れます。


頭部の結合がごく緩いために、地震がくるとすぐに<ひとり唐竹割り状態>となって、見る者を驚かせます。

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さて、エディさんは、わりと中性的で理知的な顔立ちをしていますが、彼女の最大の秘密は何か?

その答は上の写真に写っています(エディさんの足元)。
なんと、エディさんは生殖器のパーツを付け替えると男性にもなれるのです。たぶん、男性としてディスプレイする際には、胸から腹にかけての「ふた」を外した状態(内臓露出状態)を想定しているのでしょうが、でもそうでない形態も取りうるので、そうなると一寸猟奇的というか、倒錯的な雰囲気が漂います。

要するに、エディさんは「ねえさん」か「にいさん」か曖昧なひとで、男女の境界を軽々と越える、まさに完璧なアンドロギュヌスと呼びうる存在なのです。

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エディさんは、スペースの都合で現在は物置にしまわれています(今日は撮影のために久しぶりに再会)。改めてこれを聖像として部屋に祀り、その前でヘルメス的な、ネオプラトニズム的な、錬金術的な秘儀をとりおこない、暗黒の知のネットワークに参入し……

今宵の妄想はここまで。

本朝人体模型縁起2010年04月19日 21時56分03秒

エディさんからの連想で、人体模型の話をさらに続けます。

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人体模型の歴史に依然として関心を抱いているのですが、それを強く刺激される記事を目にしました。例の奇想系ブログ、Curious Expeditions が今度もソースです。

■Curious Expeditions:From the Voyage Vaults, Object No. 28
 http://curiousexpeditions.org/?p=861

これぞ、あっと驚く日本式人体模型。
アメリカの国立保健医学博物館(National Museum of Health and Medicine;NMHM)の展示品だそうです。記事中の説明によれば、

   ◆ ◇

「17世紀から18世紀にかけて、日本古来の医師たち(彼らは当時、
身体の働きをアジアの伝統医学や医術に従い、その外観から
推論しようと試みていた)は、患者に薬の効果を説明するのに、
人形を用いた。

この模型は、様々な器官を正確に表現したものというよりは、一連の
フローチャートを示したものである。ここには「虚」(陽)の器官として、
胆嚢、胃、大腸、小腸、膀胱、そして身体を巡るエネルギーの流れ
を調節する「3重の燃焼・加熱システム」があり、さらに「実」(陰)の
器官として心臓、肺、肝臓、脾臓、腎臓があった。」

   ◇ ◆

“triple burning or heating system”、「3重の燃焼・加熱システム」とは、漢方で云うところの「三焦」のこと。三焦は、五臓六腑のうちの「腑」の1つで、ウィキペディアにも記述(↓)がありますが、実体のない謎の器官。

■Wikipedia「三焦」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%84%A6

上の説明にもある通り、五臓六腑のうち主要器官である「臓」は<陰>、補助器官である「腑」は<陽>と見るのが、中国古来の考え方だそうです。

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さて、私は上の説明を読んで、一寸不思議に思いました。
説明文の記述では17~18世紀云々とあるのですが、この2体の人形は、それほど古いものとは到底思えないからです。

下の横たわっている人形は、その面貌や肌の色からして、明らかに幕末~明治期の「生き人形」系の作品でしょう。上のどっかと腰を下ろした人形は、色合いこそ伝統的な白色胡粉仕上げですが、そのぱっちりした目の表現からすると、これまた幕末期をさかのぼるものではないように思います(それ以前の人形の目は、概ね切れ長の「引き目」)。

たしかに古い時代にも、人体模型と呼びうるものはあって、たとえば東大の医学部には、江戸時代初期に遡る紙塑製の「胴人形」と呼ばれる、経絡を表現した人形が保管されており、また胴人形自体はさらに古くからあったとも言われます(※)。

ただ、江戸時代前期に、すでに<解剖型>の人体模型があったのかどうか。あったとすれば、我が国の人体模型史において見逃せない事実ですが、私は未だその作例を知りません。

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で、私なりにこの2体の人体模型の素性を推測してみます。

まず、下の横たわっている方の模型(生き人形風のもの)。これは、妊産婦を表現していますが、傍らに置かれた内臓(腸など)の表現がリアルなので、これは漢方医系の作品ではなしに、西洋医学系の人体模型を、日本で真似て作ったものだと思います。島津製作所標本部(現・京都科学)などが、明治中期に精巧な解剖模型の製作を始める以前の、きわめて珍しい作例だと言えます。

いっぽう、坐像の方は確かに漢方系の解剖模型ですが、こうした模型表現は実は意外に新しいのではないか…というのが私の想像です。まあ、特に物証はないんですが、デザインや発想が、いかにも西洋の解剖模型と類似しているので。

連想するのは、当時西洋の惑星運行模型(オーラリー)に対抗して、須弥山を中心とした仏教宇宙模型を仏僧がからくり師に命じて作らせたことです。それと同じように、この人体模型も、蘭方(あるいは更に新しい西洋医学)の隆盛に対抗して、幕末の漢方医が人形師に作らせたものではないだろうかと、そんなことを考えました。だとすれば、それはそれでまた興味深い事実です。

日本独自の人体模型の展開―。
興味と謎はなかなか尽きそうにありません。

(※)以下のリンク先をずっと下までスクロールすると、その実物写真が載っています。
   東京大学創立百二十周年記念東京大学展
   学問の過去・現在・未来 第一部「学問のアルケオロジー」第2章
   http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/02/20400.html

江戸のダビンチたち2010年04月20日 21時52分54秒

(↑中井履軒が手作りした「天図」、いわば素朴な和製オーラリーです。履軒を顕彰するサイト、“WEB懐徳堂”では、この天図の動きを画面上で見ることができます。以下のリンク先の右側にあるメニューから、「天図シミュレーション」を選択してください。http://kaitokudo.jp/navi/index.html

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昨日の記事の最後に挙げたリンク先(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/02/20400.html)には、冒頭、西野嘉章氏(東大総合研究博物館)の文章が掲載されています(「医学解剖と美術教育:「脇分」から「藝用解剖学」へ」)。

その巻末の注釈を見ていて、次の記載が目にとまりました。1771(明和8)年、杉田玄白と前野良沢が女性の腑分けを参観したことに始まる、近代解剖学の歴史を記述した章に付けられた注です。

“[25]儒学者の中井履軒までもが、『解体新書』の刊行
と同じ年、友人の麻田剛立の人体・動物解剖実験の結果
を纏めた『越俎弄筆』を出している。こちらの底本は
パルヘイン著簡易医学書『巴爾靴員解体書』のようである。”

麻田剛立(あさだごうりゅう、1734-1799)は、このブログにも何度か登場しました。出身地・大分では「Goryu」という焼酎まで作られているとか、そんな類の記事でしたが、もちろん彼はお酒に名前を残しているだけの人ではなくて、独力でケプラーの第3法則を(再)発見したともささやかれる、江戸時代の天才天文学者。弟子たちにも俊才・逸材が多く、剛立はいわば1つのスクール(学統)を率いて、日本の天文学・暦学を大いに振興した立役者です。

その名に、ひょんなところで出くわし、オッと思いました。
まあ、剛立は生業が医者なので、解剖を手掛けても特に異とするに足りませんが、それにしても…という感じです。さらにまた、その友人・中井履軒(なかいりけん、1732-1817)という人は、天文学や博物学全般に強い興味を示した異能の儒学者。

剛立といい、履軒といい、「万能人」を輩出する時間と空間が、どうもこの世にはあるような気がします。

中井履軒と『越俎弄筆』のことを検索していたら、下のような大変分かりやすいまとめがありました。

■眠い人の戯れ言垂れ流しブログ: 商いは学問に通ず(by 「眠い人」様)
 http://nemuihito.at.webry.info/201003/article_17.html

麻田剛立や中井履軒をはじめ、木村蒹葭堂、服部永錫、山片蟠桃、高橋至時、間重富、橋本宗吉といった、きら星のような人間模様を見るにつけ、18世紀後期の大阪の奥深さ、すごさを感じます。

(そういえば夕べ、橋本府知事がテレビで、恐い顔をして「大阪都構想」を語っていましたが、まあ、そんなに口角泡を飛ばして語らずとも、もっと鷹揚に、大人(たいじん)の風格を示してはどうかと、当時の大阪のことを考えながら思いました。)

星の小学校…児童天文台2010年04月22日 06時40分58秒

大阪つながりで、絵葉書を1枚載せます。

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写真↑は、キャプションにあるように、大阪の船場小学校の屋上に設けられた天文台。
大正12年に完成したものですが、大正時代の小学校に立派な天文台があったと知ってビックリです。しかも、そばには気象台(左手の、てっぺんが展望台になっている建物のこと?)や温室まであって、さすがは船場、金のかけ方が違う…と思いました。

たたずまいがいいですね。
ちょこんと帽子のようなドームをかぶり、商都を見下ろす可愛い天文台。
ここで少年少女たちが望遠鏡を覗いていたさまを思うと、実に微笑ましく且つ羨ましい。

この中にあった望遠鏡は、どんなものだったのでしょうか?
『改訂版日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣)には、「大阪千場小学校」というのが出てきます(p.343)。これは明らかに船場小学校の誤記でしょう(千場小というのはなさそうです)。ちょっと年代は下りますが、1936(昭和11)年現在のデータによると、同校にあったのはブッシュ製12センチ屈折経緯台。微笑ましいどころか、なかなか堂々たる機材です。口径だけでいうと、当時の旧制四高(金沢)や八高(名古屋)にあった望遠鏡よりも大きいので、小学校側としては相当自慢したでしょうね。

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ところで、船場小学校は、旧名を「浪華小学校」といいます。
その浪華小学校に、明治の末、1人の異貌の少年が入学しました。
ほかでもない、稲垣足穂その人です。
彼がここに在籍したのは1年生のときだけで、また当時はこの素敵なドームもなかったのですが、何となく星つながりの縁(えにし)を感じます。

さらに因縁話を続ければ、船場小学校は戦時中、近くの愛日(あいじつ)小学校に併合されましたが、愛日小の立っていた場所こそ、かつての「升屋」山片家の屋敷跡、すなわち山片蟠桃が壮大な多世界宇宙論を含む『夢の代』を著した場所なのです。

そうと知って見れば、一層不思議な天文オーラを、このかわいい絵葉書の背後に感じ取れるのではないでしょうか。

なお、大阪都心部の少子化著しく、愛日小も1990年には閉校となり、山片家に伝来した蟠桃関係資料を含む愛日文庫は、現在、開平小学校に引き継がれているようです。

○参考:ウィキペディア「大阪市立愛日小学校」の項
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%84%9B%E6%97%A5%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1

「見せる」理科室2010年04月24日 08時56分38秒


理科室の写真を撮りたい。しかも、「見せる写真」を…!
きっと学校の先生はそう思ったのでしょう。
そこで、精いっぱい「理科室らしさ」を演出するために、いろいろなモノを机上に並べてみたと。その思いが熱く、またちょっと珍妙にも感じられる写真です。

画像を拡大(クリック)して、どうぞ机の間をゆっくり歩いてみてください。
当時、「理科室らしさ」がどんな風に考えられたか、それが伝わってくるようです。

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写真師がいよいよ明日来ると聞いて、先生はこんな風に考えました。

「ふーむ、理科室のすごさをみんなに伝えなきゃいかん。
うん、まず壜詰め標本だな。これは何と言っても子供たちに人気がある品だ。みんなキャーキャー言いながら、けっこう熱心に見てるじゃないか。魚だって、ネズミだって、こうやって解剖してこそ、生物の精妙さが伝わろうというものさ。
それから鳥の剥製だ。これはちょいと豪華だし、父兄にも好評だからな。
あとは地球儀と三球儀。そう、宇宙の神秘だ。20世紀の科学を学ばんとする者、すべからく宇宙に関心を持ち、アインシュタイン博士に続くべし!と。
さーて、教卓には何を置くか…。やっぱりここは一つ教師の威厳を示すものでなくちゃな。生徒が気安く触れないようなものを…えーと…うん、七色回転板と誘導起電機。そう、これだ。これさえやって見せれば、どんないたずら坊主だって授業に釘づけさ。こないだだって…」

こうして、その日は理科室の明かりが夜遅くまで煌々と付いていたそうです。

【絵葉書データ】
●タイトル:「豊山小学校 理科手工室」
●時代:大正~昭和初期
●場所:豊山小学校というのは何となくありがちな名前ですが、検索しても愛知県にある同校しかヒットしないので、たぶんそこでしょう。明治40年に開校し、今ではイチローの母校として有名(らしい)。
●備考:理科手工室というのは図工室兼用の理科室のことで、そのため各机に万力が付いています。

コメントへのお返事を兼ねて①…「ちいさいおうち」の実験装置2010年04月26日 06時50分09秒

(元記事は4月24日 http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/04/24/5040373

理科室の隅々にまで鋭い視線を向けられた、とこさんからのコメントに対するお返事です。

○とこさま

鋭い、いい目をされていますね!恥ずかしながら、私はまったく気付きませんでした。
上の強拡大画像を見ると、たしかに黒板下の縦格子の手前に、それとは微妙にずれた垂直線が認められます(A)。長さも、ご紹介いただいた島津の避雷針模型(※)のそれに近いようです。ですから、この家型のものは、きっと避雷針模型に違いありません。

(※)↓のリンク先のいちばん下にある器具。
 http://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/display/meiji/005.html

とすると、ひょっとしたら隣の(B)は、同じページに出ている「電卵」?(卵型というよりは、ラッキョウ型というか、ランプのほや型のようにも見えるので、これはちょっと自信がありません)。

それにしても、「かわいい実験装置」というのがあるとすれば、これこそそれですね。
私の机の上にも、ぜひ、この「おうち」が1つ欲しいです。

コメントへのお返事を兼ねて②…足穂のラジオ出演?2010年04月26日 06時53分43秒

(元記事は3月28日 http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/03/28/4980540

S.Uさんから、昨日以下のようなコメントをいただきました。
「稲垣足穂が昭和10年前後の七夕の時期に、ラジオ出演をしたことがあるだろうか?」という問題提起です。これはコメント欄に置いておくと、識者の目に触れずに終わってしまう可能性が高いので、取り急ぎ記事に挙げておきます。
この件については、私自身もちょっと調べてから改めて書き込みをする予定ですが、他の方からもコメント等いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

■□ 以下、S.U氏のコメント再掲 □■

こんにちは。また、こちらにコメントです。

 足穂の30代の明石時代の「リアル天文」における「普及活動」についてですが、すでに述べた件について、こちらで調べてもよくわからないというか、取りつくシマもないことがあるので、ぜひ、玉青さん、それから世の学識の方々のお知恵を借りたいと思い、ここに報告をさせていただきます。以下、少し長くなりますが、ご容赦ください。

 それは、上(4/8のコメント〔3月28日の記事に4月8日にいただいたコメント―引用者〕)に書いた「稲垣足穂出演のラジオ放送」の件です。「北落師門」という私小説に、主人公「私」の友人「忠郷」の姉という人が出てきて、会話体で、「私」がラジオ出演して「棚機」のころに天文と文学について語る予定である、という話が出てきます。会話体なのでいまひとつ明瞭ではありませんが、他の解釈はできないように思います。

 この「私」は足穂で、時期は彼が明石で望遠鏡を買った後の明石在住中ということのようです。昭和10年の可能性が最も高く、昭和9年、11年の可能性もあります。(彼の小説や年譜にはこのへんで1年程度の矛盾があることがあります)

 当時のラジオ局としては、日本放送協会大阪放送局(JOBK)(神戸に支所があった)しか考えられないので東京朝日新聞の番組表を見てみましたが、足穂の名前は見つけられていません。七夕前後に特別講義番組がありましたが、足穂の名前は出ていませんでした。でも、別の番組の可能性もあり、また、新聞に載っているのはごく一部の番組だけなので、これだけでは足穂がラジオに出ていないという証拠にはなりません。

 当時の足穂は、明石でぶらぶらしているだけのアル中の人だったので日本放送協会から声がかかるかあやしいようにも思いますが、たとえば野尻抱影が『星座巡礼』出版後すぐにラジオ番組のレギュラーになっていることを考えると、すでに星に関するユニークな小説を何編も世に送っていた足穂にもラジオ出演の声がかかる可能性は十分にあったと考えます。足穂が実際の星座を憶え始めたのは昭和7年頃のことでしたが、このころ彼は暇だったので、2~3年で一通りの星座は憶えていたことでしょう。また、母親や知人に望遠鏡で月を見せたり、星について語ったりしているので、そういう知識を人に広めたいという気持ちは持っていたと思います。野尻抱影の影響もあったでしょう。

 それでは、当時の足穂の年譜、ラジオ放送についてご存じのことがありましたらお知らせください。私の根拠の無い勘では、このラジオ出演の件は、まったくの虚構である可能性が2割、話はあったが実行されなかった可能性が5割、実際に出演した可能性が3割くらいではないかと思っています。